敬愛する先輩の訃報

 先週、桑山博克さんの訃報を平田君の知らせで知った。桑山さんは高校の2級上の先輩で、済々黌水球部の黄金時代を支えた名選手だった。日大に進学後もすぐに頭角を現した。高校時代は中盤の選手だったが、大学からはその闘志とスピードを活かして、攻撃的なディフェンダーとなった。メキシコ五輪とミュンヘン五輪の2回、水球日本代表にもなった。特にメキシコでは日本水球史上初の予選リーグで3勝をあげる立役者となった。
 練習ではとにかく厳しかった。僕ら下級生は皆ピリピリしていた。しかし、なぜか僕はこの人からやさしい言葉をかけてもらった記憶しかない。大学は違ったので試合の時などに会うといつも声をかけてくれた。この人が自陣から敵のゴールをめがけてドライブをかける時のスピードは天下一品で、僕はこのプレーを見るのがいつも楽しみだった。大学を卒業して航空会社に就職された後も、自分の出身大学でもないのに僕らのチームの練習を何度も見に来ていただいた。
 桑山さん、本当にお世話になりました。来世でまた酒でも酌み交わしましょう! 合掌
柴田範房
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メキシコ五輪に出場した熊本県出身の選手・監督・コーチたち
左から競泳の大沢君、水球の米原さん、坂本さん、桑山さん、競泳の合志さん、
藤井さん、カヌーの吉野さん、ボクシングの永松さん、カヌーの白取さん

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# by swpc | 2017-10-23 22:05 | Trackback | Comments(0)

水前寺プールの初泳ぎ

 2011年10月22日に投稿した記事を再編集し再掲しました。

 かつて濟々黌水球部の正月元旦の恒例行事は、水前寺プールでの初泳ぎでした。
 村山憲三さん(37年卒)から送っていただいたこの映像に登場する顔ぶれから見ますと昭和35年(1960)の正月の風景と思われます。この年はインターハイ優勝、熊本国体は準優勝でした。
 米原さん(35年卒)、宮本さん(35年卒)、坂本さん(35年卒)、宮川さん(35年卒)、大村さん(36年卒)、奥村さん(36年卒)、村山さん(37年卒)、桑山さん(37年卒)、入江さん(37年卒)らの顔が見えます。現在、このプールがあったところには出水神社能楽殿が建てられています。
 この25mの湧水プールは年間通して18度くらいの水が湧いていました。ですから冬期は比較的温かく感じますが、外気が冷たく上がると震え上がっていました。逆に夏にはこのプールは冷たくて長く入っていられなかった憶えがあります。この水前寺プールでの初泳ぎも私が卒業する頃にはなくなり、済々黌のプールなどを使うようになりました。すぐそばにあった熊本市立体育館も、1999年の台風で破損し、その後取り壊されました。今は電停にその名を残すのみです。(柴田範房)



水前寺プールの跡には現在、出水神社能楽殿が建てられています
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# by swpc | 2017-01-03 16:11 | Trackback | Comments(0)

リオ五輪水球 日本初戦でギリシャに逆転負け!

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リオ五輪日本水球チームは予選リーグ初戦でギリシャに逆転負けを喫した。第3クォーター終了時点で日本が3点リードしていたので、NHKの中継では、アナウンサーも解説者も「歴史的な大金星か!」と興奮を隠さなかった。それを聞きながら、僕は違和感をぬぐえなかった。たしかに近年ではギリシャは世界選手権などで好成績を収めているが、48年前のメキシコ五輪の頃、ギリシャは欧州勢の中では弱小チームだった。現に日本はメキシコ五輪の予選リーグでギリシャに勝っている。結局、日本は決勝ラウンドには進めなかったものの予選リーグでは、ギリシャ、ブラジル、メキシコに勝って3勝4敗の成績を収めている。仮に日本が今回のリオ五輪でギリシャに勝っていたとしても、はたして「歴史的な大金星」と言えるのだろうか。その点が腑に落ちないのである。たしかに現時点では彼我の間には大きな差があるのかもしれない。だとすれば、この48年の間にそうなってしまったのはなぜなのか。それを究明しなければならないと思う。ギリシャに善戦したからと喜んでいたのでは日本水球の明日は暗い。
 ちなみにメキシコ五輪日本チームには、わが済々黌OBの桑山博克(S37年卒)、坂本征也(S38年卒)、米原邦夫(S35年卒)の3名が含まれている。
(柴田)

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# by swpc | 2016-08-08 13:11 | Trackback | Comments(0)

第16回国民体育大会夏季大会(1961年)

 第16回国民体育大会夏季大会は、義宮さまをお迎えして、会津若松市に9月14日から4日間にわたって繰り広げられました。はるばる海を渡って参加した沖縄を初め、全国から水の精鋭1,500名が熱戦を展開しました。
 この大会については、これまでも何度か投稿しましたが、済々黌にとってあまり良い思い出ではありません。しかし、済々黌水球部史のなかで記録にとどめておくべき出来事だと思っています。この大会の映像が「ふくしま教育情報データベース」のサイトに残されているのはとても貴重なことだと思います。
(柴田)


▼下の写真をクリックすると「ふくしま教育情報データベース」のサイトへ飛びますので、「ふくしまの動画」の中の「4.県民ニュース」をクリックし、1961年の「民友ニュース№95」をクリックしてご覧ください。

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# by swpc | 2016-07-07 13:13 | Trackback | Comments(0)

あの日あの時 ~ 村山憲三さん(S37年卒)のアルバムより ~

 随分久しぶりの更新です。
 今回は村山憲三さんからご提供いただいたDVD映像の中から、なつかしい仲間の顔、顔、顔をご覧いただき、ご自分の若かりし頃を振り返っていただきたいと思います。
(柴田範房)



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# by swpc | 2016-06-03 15:06 | Trackback | Comments(0)

水泳部員名簿(その1)

 もう4ヶ月ほど前になるが、後輩の神谷洋君(S45年卒)が同級の藤木俊清君とともにわが家を訪ねてくれて、母黌水泳部の古い名簿があるので、このブログで紹介してほしいという依頼があった。現物は片桐英夫君(S58年卒)が保管しているとのことだったので、先日、寺原自動車学校へ高齢者講習を受けに行ったついでに片桐君から預かってきた。
 昭和14年度から平成7年度までに在籍した部員自筆の部員名簿である。主将などの肩書や進路なども書き添えてある。書き込んでもらうタイミングを失したのか、空白の年度や個人もあるが、年度順に紹介していきたい。
 今回は昭和14年度。済々黌の最初のプールが竣工したのは昭和7年9月のことなので、それから昭和14年まで、水泳部が存在したのかどうかの記録は見い出せていない。
 この年は「第二次世界大戦」や「ノモンハン事件」が勃発した年だが、その2年前には既に、当時「支那事変」と呼んだ日中戦争が始まっており、戦時色の強い年だった。翌15年には東京オリンピックが予定されており、それに向けた準備が進められていた(後に開催返上)。横綱双葉山が安芸ノ海に敗れて70連勝がならなかったのもこの年の出来事である。
 ちなみに水球部が発足するのは戦後、昭和21年のことである。


黄壁城(明治39年~昭和35年)


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# by swpc | 2015-12-02 14:19 | Trackback | Comments(0)

古武士とろうそく

 飯田寿平さんは戦後の熊本水泳界ひいては日本の水泳界をリードされた水泳界の偉人の一人であるが、実はわが水球部の創設にも与って力があったお一人でもある。ご本人は熊中(現熊高)から早稲田に進み水球の主将として活躍された。水球部草創期の先輩方は飯田さんから直接技術指導を受けていたと聞いている。私が高校在学中は熊本県水泳協会理事長を務めておられた。日頃はあまり接することはなかったが、たまたまご自宅がわが家と近かったため、よく平田先生から預かった急ぎの文書を届けたりしたものだ。お家柄か古武士のような風格を備えておられて、練習を見に来られてもほとんど口を出されないが、日頃の行動や態度については時々厳しい指導をされた。その飯田さんの最も印象深い想い出は昭和36年(1961)の会津若松国体の時のことだ。熊本県選手団は会津若松城(鶴ヶ城)内の西澤別館というところに宿舎を構えた。大広間の座敷に選手団長の飯田さん以下全員が集まって食事をとった。大会期間中、台風に襲われた。競技も一日順延されたが、ちょうど夕食の時間に全館停電となった。真っ暗な大広間の数か所にろうそくが立てられ、その灯りの中で全員が黙々と食事をとった。食事の時に飯田さんがよく口にされたのが「黙って食え!」。お家の躾だったのか食事中のおしゃべりがことのほかお嫌いだった。あの日の夕食は、今思えば随分と不気味な光景だったにちがいないが、正座をして黙々と食事をされる飯田さんの凛としたお姿が今でも目に浮かぶ。
(柴田範房)

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# by swpc | 2015-10-09 09:59 | Trackback | Comments(0)

藤本重信さん

 本日(2015.4.14)の熊本日日新聞スポーツ面のコラム「ロッカールーム」に藤本重信さん(昭和33年卒)が登場されましたのでご紹介します。

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# by swpc | 2015-04-14 09:49 | Trackback | Comments(1)

新熊本の体力(3)

 四半世紀以上にわたって〝強豪″の名を全国にとどろかせた済々黌高水球部。輝かしい歴史の中で、インターハイと国体で最後の優勝を飾った時の選手に、当時の思い出などを聞いた。
 最後のインターハイ優勝は1967(昭和42)年の福井大会。田代孝士(66)はFWで出湯した。予選1回戦は田代もゴールを奪い新潟・柏崎を2-0で下し、同2回戦は東京・北野を10-0で一蹴した。決勝は岡山・関西、埼玉・川口市立、大分・臼杵とのリーグ戦に。
 「どのチームも背が高く、がっしりした選手ばかり。体格、泳力ともうちが一番劣勢だった」と田代。初戦の関西戦は最終クォーターまで2-1とリードしたが、終了間際に痛恨のファウルを犯し、2-2の引き分け。第2戦ば前年の国体で苦杯をなめさせられた川口市立。ポイントゲッターの木村隆、西田英生が大活躍し4-3で勝ち、1勝1引き分けとした。
 最終戦は九州のライバル。臼杵。「末弘杯、九州大会で勝っていたので心の緩みがあった」と田代が振り返る通り、常に先行を許す展開。最終クォーターで追いつき、3-3で引き分けた。1勝2引き分けながら勝ち点4で栄冠に輝いた。「矢賀(正雄)コーチから『ボールは燃える火の球だ』と教えられ、ボールを長く持つことはなかった。パスと同時にダッシュの繰り返し。体格のハンディを補う作戦だったんですね」と田代。
 翌年、インターハイ連覇を目指した済々黌は九州予選敗退。同じく福井開催だった国体制覇にかけていた。2年生の浜田澄夫(63)はFWを務めた。「インターハイ予選に敗れ日大(東京)で強化合宿が行われた。10日間ほどだったが、起きている間はほとんどプールの中。血尿が出る者もいた。しこたま鍛えられた」(浜田)
 迎えた本番は東京・城西を5-3、大阪・茨木を6-2で下し、予選を通過した。決勝リーグは済々黌、長崎・諌早商、臼杵、柏崎の顔ぶれ。文字通り九州決戦の様相を呈した。「長崎国体を控え、選手強化を進めていた諫早が一番手強かった。でも緊急合宿の成果もあって優勝できた」と浜田。柏崎とは引き分けたものの、臼杵を4-2、諌早商を3-2で退け頂点に立った。浜田は好アシストで何度もゴールに貢献した。
 田代は法政大を経て熊本県警入り、浜田は日大を出た後、和歌山県の高校教員になり同県の水球普及・強化に情熱を燃やした。「水球で熊本の名を見なくなって久しい。母校にはこだわらない。熊本のこれからに期待したい」。2人は口をそろえた。(完)


昭和42年福井インターハイ優勝チーム


昭和43年福井国体優勝チーム

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# by swpc | 2014-12-10 18:06 | Trackback | Comments(0)

新熊本の体力(2)

 8月7日に、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」に掲載された、済々黌水球部の歴史の2回目の記事を紹介いたします。

 済々黌水球部はインターハイで5度、国体で2度など、全国大会で通算32度の3位以内入賞を果たしている。済々黌の強さの秘けつは何だったのだろう―。平田忠彦(2004年、93歳で死去)という名伯楽に恵まれたこととともに、大学生らのOBが足繁く母校に通い、後輩たちの面倒を見たのも大きかった。
 矢賀正雄(04年、74歳で死去)もその一人だった。済々黌から立命館大に進んだ矢賀は熊本に帰って中学校教師になる。“本職”の中学での授業を終えた矢賀は自転車にまたがって母校のプールに通うのが日課だった。古ぼけた自転車のブレーキ音が“鬼コーチ”の到着を知らせると、部員たちに緊張が走った。プールサイドに陣取った矢賀はニコリともしなかったという。
 1955(昭和30)年から15年間、平田とコンビを組み、現場コーチとして腕を振るった。矢賀が力を入れたのは、踏水術から引用した巻き足泳法。頭の上にたたんだ学生服を載せ、制服をぬらさない泳法を徹底的にたたき込んだ。57(同32)年の国体初優勝を皮切りに、国体、インターハイで計5度の全国制覇に導き、9人の五輪代表を育てた。
 70(同45)年に平田から監督を引き継いだのが吉邑紀義(93年、53歳で死去)だった。57年の国体(静岡大会)初優勝で済々黌の主将を務めた。東京教育大(現筑波大)を出ていったんは埼玉県教員に。67(同42)年の地元・埼玉国体は監督として市立川口高を率い、決勝リーグで母校・濟々黌を破り優勝を飾った。3年後に熊本に帰って熊本に帰って濟々黌に赴任。恩師・平田の後を継いで監督就任、後輩たちをインターハイや国体出場に導いた。県高体連水泳専門委員長も務めた。
 「練習はきつかった。でもプールを離れれば平田先生も矢賀先生も優しかった。」と68(同43)年の福井国体優勝メンバーだった藤木俊清(63)は振り返る。「大学を出てしばらく茨城で仕事をやっていました。そしたら『うまくいってるか』と2人そろって遠路はるばる励ましに来てくれた。何かのついでだったのでしょうが感激しましたね」(藤木)
 平田の長男・和彦(68)は済々黌から早大を経て国体開催を控えていた鹿児島の社会科教員に。川内高監督として71(同46)、72年には同校をインターハイ、国体優勝に導いた。「学校でも家でも変わらず温厚な父だった。晩年は矢賀さんや吉邑さんら後輩に相次ぎ先立たれたことが相当こたえたようだった。さらに『最近はプールに卒業生が集まって来なくて寂しい』とつぶやいていました。


昭和32(1957)年、国体初優勝チーム(後列真ん中が吉邑紀義さん)

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# by swpc | 2014-11-15 12:52 | Trackback | Comments(0)

新熊本の体力(1)

 8月6日、7日および10日の3回にわたり、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」の中で、済々黌水球部の歴史が紹介されました。50年前に連載された「熊本の体力」の新シリーズですが、前回掲載した50年前の記事と比較しながらお読みください。

 熊本に水球がお目見えしたのは1946(昭和21)年。県水泳協会の発足を記念し、熊本・福岡対抗水上競技大会の公開競技として行われたのは始まりだ。同年秋には五高、熊中(現熊本高)、中学済々黌(旧制)などから5チームが出場し、第1回県選手権が開かれている。熊中、済々黌に水球部がつくられたが、唯一残ったのが済々黌だった。
 新制高校となった済々黌は、48(同23)年から全国高校水上大会(現在のインターハイ)に出場する。水球は素人の教師が部長となり、県協会の経験者らが指導、初陣でいきなり準優勝した。49年3位、50年準優勝と好成績が続いた。しかし、部長担当の教師が毎年入れ替わり、ついには部長不在。さらに、学校も遠征費を出し渋るなど水球部は存続の危機に見舞われた。
 そんなとき、済々黌にやってきたのが平田だった。前任の教師に「お前たちの力では全国優勝はできん」と断られた生徒たちは困り果てた。「平田先生は昔陸上ばしとらしたてよ。水球は知らっさんでよか、頼んでみゅう」と、来たばかりの平田に白羽の矢を立てた。翌51(同26)年春、平田は国語の教べんをとるかたわら、水球部長に就任した。
 平田は熊中から東洋大に進み漢文を専攻した。熊中時代は陸上部で、東洋大4年生で箱根駅伝往路の“花の2区”を走っている。大学を出て、宮崎高女を皮切りに埼玉・浦和高、愛知・名古屋幼年学校から熊本に帰って大津高で教壇に立ち、50(同25)年済々黌に赴任した。以後、定年を迎えるまで済々黌を離れることはなかった。
 「やれる者はどこまでもやり抜け。力がない者はやれる限りやれ。やれたシコがああたが人生タイ」。平田が亡くなった時、教え子の菅原平(52年卒、メキシコ五輪水球コーチ)が熊日に寄せた追悼文の一節で、平田が勉学と部活の両立に悩む教え子に掛けた言葉だ。「辛抱強く待ち、生徒たちのやる気を引き出す」という平田の指導法をよく表している。
 平田の“魔法”にかかった部員たちは名選手に生まれ変わる。1年目、51年のインターハイで東京の慶応を7-5で下し念願の全国制覇。53(同28)年には京都・山城を退けて2度目の優勝。快進撃が始まった。
※写真は平田忠彦部長(上)、菅原平(下)
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# by swpc | 2014-10-16 18:57 | Trackback | Comments(0)

熊日新聞「熊本の体力」はどう伝えたか!

 熊本日日新聞スポーツ面に「新熊本の体力」というコラムが連載されている。熊本におけるスポーツ界の歴史を振り返るものだが、先月、水泳界について連載され、その中で済々黌の水球も取り上げられた。
 その内容をご紹介する前に、今回「新」と銘うつからには、もとになった旧連載があるのである。それはちょうど50年前、東京オリンピックが行われた昭和39年(1964)から3年間にわたり連載された。その中でも済々黌の水球が取り上げられている。まず、その昭和39年版にどう書かれているのかを何回かに分けてご紹介したい。今回はその第1回。
(柴田範房)


済々黌の水球

しろうと部長の下で
 「昭和26年8月24日。それは済々黌の水球チームが待望の初優勝をなしとげて、全国制覇の夢を実現させた記念すべき日であった。・・・‥・優勝杯を手にして選手一同しばし感激の涙にむせんだのであった。迫りくる夕やみの中に部長の私を中心に選手、先輩ひとかたまりになって手をとり合ってうれし泣きに泣いたあの時の劇的な情景は今だに私の脳裡を去らない。全く歴史的な感激の一瞬であった」-昭和38年2月発行の済々黌創立80周年記念号「多士」に同黌水球部長の平田忠彦はその喜びをつづっている。
 済々黌に水球が生まれたのは戦後間もない昭和21年の夏であった。その間のいきさつはすでに書いたのでここでは省略する。水球部の部長は吉田長善、八重島香二、山田繁と引き継がれ26年から平田忠彦がめんどうを見た。そのいずれも“水球”についてはしろうとであった。技術的には県水協の古荘次平、飯田寿平らの熱心な手ほどきに始まり、その後は若い先輩たちが入れ替わり、立ち替わり母校のプールにやってきて、その練習にハッパをかけたのである。そして末弘杯水上競技大会で知られる西日本高校水上では17連勝の快記録を残した。
 ところで、この済々黌水球チームが、全国制覇の目標に一歩近づいたのは25年の全国高校水上大会だった。安浪渡、古賀伸一郎、田代二生、大坪大学といった名選手をそろえ、決勝戦で慶応高と対戦した。一進一退の互角に渡り合い、最後は反則負けで準優勝に終わった。しかしチーム力からすれば史上最強といわれ、その不運に選手たちは涙を流したものである。

インタハイで勝つ
 だが、その宿願を果たす日は翌年に訪れた。
 26年の水球部は平田部長、安浪渡コーチで選手は次の11人だった。
 主将の佐伯卓三、菅原平、竜川武弘、大島淳之助、川北文男、坂田定苗、田久保徹、水垣憲治、田代晃一、中村允、井上融。
 主将の佐伯は平泳ぎの選手としても県下で1、2位を争うスピードがあった。選手はみんな水球の虫だった。なかでも副主将格の菅原は研究熱心だった。授業中によくノートをとっていると思うと、それは水球のフォーメーションの研究に没頭しているのだった。この二人のほか3年生の竜川、大島、川北、坂田は旧制中学最後の済々黌入学。学制改革で併設中学となり、済々黌在学6年目だった。1年先輩に好選手がそろっていたため試合に出るチャンスがなく、長い下積みの苦労ばかり重ねていた。“いつかはきっと試合に出てやるぞ”と歯を食いしばって下積みに耐え、やっとそのチャンスがめぐってきたのだ。試合がやりたくてうずうずしていた連中はかりである。新人とはいえ、高校水球選手としてはすでにべテラソの域に達していた。
 当時の日本高校選手権水上競技大会は、東西対抗の形式で行なわれていた。済々黌はまず8月18日から奈良県の天理プールで開かれた西部高校選手権水上大会に参加し、準決勝で天王寺高(大阪府)を15-1で一しゅう、決勝でも福岡高(福岡県)を9-5でくだして優勝。西部代表校として東京神宮プールで日本一を争うことになった。
 水球決勝戦は8月24日午後5時20分から行なわれた。相手は前年の大会で反則負けした慶応高(東京都)だった。“相手にとって不足はない。昨年のかたきをとってくれ”と安浪コーチは選手を励ました。気温31.5度、水温28度とコンディションは上々。スタンドは超満員で、その中には在京の先輩たちが懸命に声援を送る姿が見られた。
 試合は開始後2分にLB水垣が先制シュートを決めた。CF竜川とRF菅原の攻撃コンビのシュートもあって前半5点をあげ、2点をリードした。だが後半に入ると慶応も前回の優勝チームらしいうま味を発揮し、またたく間に同点に追いついた。その後はファイトとファイトがぶつかり合って激しい攻防となったが、済々黌FW陣は必死のがんばりでついに2点をあげ、7-5で強豪慶応をくだした。
 初優勝。だがその栄冠に喜ぶより、選手たちほ試合終了と同時に精根尽き果て、プールからはい上がるのがやっとという激しい決勝戦だった。日本水連会長田畑政治から金色の優勝杯が主将の佐伯に授与され、初めて喜びがわいた。選手たちは平田部長、安浪コーチを中心に抱き合って泣いた。戦後の済々黌運動部にとって、この優勝は最初の全国制覇であった。
 「万年優勝候補」の汚名をそそいだこの優勝が、済々黌水球部の伝統を築くのにどれほど力があったかしれない。「地方熊本でも練習いかんでは優勝できる」 「技術的には中央チームにも劣らない」という自信と希望を与えた。それが現在の済々黌水球部のなかに生きて“水球の済々黌”か“済々黌の水球”かといわれる名門チームとなっているのである。




初の全国制覇メンバー
前列左から竜川、佐伯、菅原。後列は水垣、田代、大島、田久保
後は顧問の江口先生と部長の平田先生

(続く)

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# by swpc | 2014-09-04 11:12 | Trackback | Comments(0)

スポーツ王国 済々黌

 戦後、済々黌が県下のスポーツ界をリードした要因は何だったのか。昭和45年(1970)11月6日の西日本新聞の記事の中からそれを探ってみたい。
(柴田範房)


■めぎましい活躍
 戦後の済々黌は、またスポーツ界でも県下のリーダー的役割りを果たした。文化部と同様、23年の済々黌新聞に目を通すと、体操、陸上競技、水泳、野球、庭球、卓球、相撲、蹴球、ラグビー、排球(バレーボール)籠球(バスケットボール)送球(ハンドボール)野外運動の13のクラブが名を連ねているが、これらの各部に優勝経験のないものはないといっていいほどの、めざましい活躍ぶりである。
 この前後の同黌新聞を見るがいい。毎号の紙面は『県大会に堂々優勝』『県下の王座に』『いぜん破竹の勢い』『またも全勝』といった、景気のよい見出しで飾られている。まさに百花りょう乱といったにぎやかさである。『ひところの済々黌では、国体ともなると、1クラス分ぐらいの選手が県代表として出場のため、ゴソッと教室から抜けたものだ』とは、今春同黌を退職した元教諭中島桂介(昭和4年卒、熊本女子短大教官)の思い出だが、それもなるほどとうなずける実績である。
 これらのなかで、全国優勝の輝かしい栄光をになっているのは、野球、水球、ハンドボール、陸上競技、体操の五部。なかでも水球は26年のインターハイを皮切りに、一昨年の国体まで前後7回にわたって全国制覇をなし遂げた。戦前の剣道(10回優勝)にまさるとも劣らない快挙であろう。
 昨春まで20年間同黌水泳部長をつとめた平田忠彦(今春退職、現県水泳協会理事長、尚絅高教諭)は 『20年というもの、少なくとも3位以上を確保する努力は、なみたいていではなかった』という。宿願の初優勝、28年国体の優勝はことに思い出深い。この年は熊本を襲った空前の大水害で、7月中はプールの水替えはおろか、プールは被災者の洗たく場と化して、練習どころではなかったのだから。

■優秀な指導者たち
 この栄光の中から、ローマ、東京、メキシコと3回のオリンピックに7人の日本代表選手が育った。ローマ大会には宮村元信 (30年卒)藤本重信(33年季、現日大水球監督)柴田徹(34年卒)東京大会は藤本。メキシコ大会にはコーチとして菅原平(27年卒、現日本水連水球審判部長)選手に米原邦夫(35年卒、同水球委員)桑山博克(37年率)坂本征也 (38年卒)という顔ぶれ。一校からこのように多くのオリンピック選手を生んだのも、全国的に珍しいことに違いない。
 この〝勝利″の裏付けとして、中島は選手たちのおう盛なファイト、優秀な指導者、指導助言の忠実な実行の三点をあげている。水球は平田、陸上(30年インターハイ優勝)は中島という得がたい指導者を得たように、ハンドボール(29年国体優勝)には藤田八郎(現在も同黌教諭)というリーダーがいた。彼は『面白いスポーツを教ぇるから、体格のいい者集まれといったら、もと相撲部員がずらりとやってきた。水球などに刺激されて〝ひとつオレたちも”という気迫が優勝へ導いた』と語る。
(昭和45年11月6日西日本新聞)

▼昭和39年(1964)東京オリンピック水球に出場した藤本重信選手を迎えた済々黌教員一同
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# by swpc | 2014-07-26 21:38 | Trackback | Comments(0)

中央線沿線の風景

 私は2回東京勤務をし、計10年近く中央線で通勤した。最初に行ったのが1978年の11月だったが、毎日の行き帰りの車窓から阿佐ヶ谷の中央大学プールを眺めるのが楽しみだった。そこは高校生の頃の夏合宿をした思い出の場所だったからである。しかし、中大の合宿所は移転するとか、いやもう移転したとかいう話を聞いた。50mのプールはそのまま残っていたが。しばらくして子供が泳げるような市民プールに姿を変えた。そして私が東京を去る頃にはそのプールさえ無くなっていたような記憶がある。時代の流れとはいえ、思い出の場所が消え去っていく寂しさを感じたものだ。下の写真は昭和38年(1963)8月、その中大合宿所でインターハイ前の合宿をした時の思い出の1枚である。
(柴田範房)

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# by swpc | 2014-06-27 23:57 | Trackback | Comments(3)

呉越同舟

 下の写真は昭和38年(1963)の山口国体でのスナップ写真です。競技が終了した翌日、国体恒例のバス観光が行われ、秋吉台などを観て回りましたが、当時宿敵だった鴨沂高校チームと同じバスに乗り合わせました。前の座席に座っているのが平田先生と鴨沂高校の川井千仭先生で、後ろの席から顔を出しているのが私です。この大会ではわれわれが準決勝で関西高校に敗れ、直接対決することがなかったためか、和やかな雰囲気で交流した記憶があります。また鴨沂高校OBの皆さんとは大学に進んでからも関東学生リーグなどで頻繁に顔を合わせることになり、とても親しくさせていただいた思い出があります。
(柴田範房)


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# by swpc | 2014-05-18 23:54 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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