熊日新聞「熊本の体力」はどう伝えたか!
熊本日日新聞スポーツ面に「新熊本の体力」というコラムが連載されている。熊本におけるスポーツ界の歴史を振り返るものだが、先月、水泳界について連載され、その中で済々黌の水球も取り上げられた。
その内容をご紹介する前に、今回「新」と銘うつからには、もとになった旧連載があるのである。それはちょうど50年前、東京オリンピックが行われた昭和39年(1964)から3年間にわたり連載された。その中でも済々黌の水球が取り上げられている。まず、その昭和39年版にどう書かれているのかを何回かに分けてご紹介したい。今回はその第1回。
済々黌の水球
しろうと部長の下で
「昭和26年8月24日。それは済々黌の水球チームが待望の初優勝をなしとげて、全国制覇の夢を実現させた記念すべき日であった。・・・‥・優勝杯を手にして選手一同しばし感激の涙にむせんだのであった。迫りくる夕やみの中に部長の私を中心に選手、先輩ひとかたまりになって手をとり合ってうれし泣きに泣いたあの時の劇的な情景は今だに私の脳裡を去らない。全く歴史的な感激の一瞬であった」-昭和38年2月発行の済々黌創立80周年記念号「多士」に同黌水球部長の平田忠彦はその喜びをつづっている。
済々黌に水球が生まれたのは戦後間もない昭和21年の夏であった。その間のいきさつはすでに書いたのでここでは省略する。水球部の部長は吉田長善、八重島香二、山田繁と引き継がれ26年から平田忠彦がめんどうを見た。そのいずれも“水球”についてはしろうとであった。技術的には県水協の古荘次平、飯田寿平らの熱心な手ほどきに始まり、その後は若い先輩たちが入れ替わり、立ち替わり母校のプールにやってきて、その練習にハッパをかけたのである。そして末弘杯水上競技大会で知られる西日本高校水上では17連勝の快記録を残した。
ところで、この済々黌水球チームが、全国制覇の目標に一歩近づいたのは25年の全国高校水上大会だった。安浪渡、古賀伸一郎、田代二生、大坪大学といった名選手をそろえ、決勝戦で慶応高と対戦した。一進一退の互角に渡り合い、最後は反則負けで準優勝に終わった。しかしチーム力からすれば史上最強といわれ、その不運に選手たちは涙を流したものである。
インタハイで勝つ
だが、その宿願を果たす日は翌年に訪れた。
26年の水球部は平田部長、安浪渡コーチで選手は次の11人だった。
主将の佐伯卓三、菅原平、竜川武弘、大島淳之助、川北文男、坂田定苗、田久保徹、水垣憲治、田代晃一、中村允、井上融。
主将の佐伯は平泳ぎの選手としても県下で1、2位を争うスピードがあった。選手はみんな水球の虫だった。なかでも副主将格の菅原は研究熱心だった。授業中によくノートをとっていると思うと、それは水球のフォーメーションの研究に没頭しているのだった。この二人のほか3年生の竜川、大島、川北、坂田は旧制中学最後の済々黌入学。学制改革で併設中学となり、済々黌在学6年目だった。1年先輩に好選手がそろっていたため試合に出るチャンスがなく、長い下積みの苦労ばかり重ねていた。“いつかはきっと試合に出てやるぞ”と歯を食いしばって下積みに耐え、やっとそのチャンスがめぐってきたのだ。試合がやりたくてうずうずしていた連中はかりである。新人とはいえ、高校水球選手としてはすでにべテラソの域に達していた。
当時の日本高校選手権水上競技大会は、東西対抗の形式で行なわれていた。済々黌はまず8月18日から奈良県の天理プールで開かれた西部高校選手権水上大会に参加し、準決勝で天王寺高(大阪府)を15-1で一しゅう、決勝でも福岡高(福岡県)を9-5でくだして優勝。西部代表校として東京神宮プールで日本一を争うことになった。
水球決勝戦は8月24日午後5時20分から行なわれた。相手は前年の大会で反則負けした慶応高(東京都)だった。“相手にとって不足はない。昨年のかたきをとってくれ”と安浪コーチは選手を励ました。気温31.5度、水温28度とコンディションは上々。スタンドは超満員で、その中には在京の先輩たちが懸命に声援を送る姿が見られた。
試合は開始後2分にLB水垣が先制シュートを決めた。CF竜川とRF菅原の攻撃コンビのシュートもあって前半5点をあげ、2点をリードした。だが後半に入ると慶応も前回の優勝チームらしいうま味を発揮し、またたく間に同点に追いついた。その後はファイトとファイトがぶつかり合って激しい攻防となったが、済々黌FW陣は必死のがんばりでついに2点をあげ、7-5で強豪慶応をくだした。
初優勝。だがその栄冠に喜ぶより、選手たちほ試合終了と同時に精根尽き果て、プールからはい上がるのがやっとという激しい決勝戦だった。日本水連会長田畑政治から金色の優勝杯が主将の佐伯に授与され、初めて喜びがわいた。選手たちは平田部長、安浪コーチを中心に抱き合って泣いた。戦後の済々黌運動部にとって、この優勝は最初の全国制覇であった。
「万年優勝候補」の汚名をそそいだこの優勝が、済々黌水球部の伝統を築くのにどれほど力があったかしれない。「地方熊本でも練習いかんでは優勝できる」 「技術的には中央チームにも劣らない」という自信と希望を与えた。それが現在の済々黌水球部のなかに生きて“水球の済々黌”か“済々黌の水球”かといわれる名門チームとなっているのである。
初の全国制覇メンバー
前列左から竜川、佐伯、菅原。後列は水垣、田代、大島、田久保
後は顧問の江口先生と部長の平田先生
その内容をご紹介する前に、今回「新」と銘うつからには、もとになった旧連載があるのである。それはちょうど50年前、東京オリンピックが行われた昭和39年(1964)から3年間にわたり連載された。その中でも済々黌の水球が取り上げられている。まず、その昭和39年版にどう書かれているのかを何回かに分けてご紹介したい。今回はその第1回。
(柴田範房)
済々黌の水球
しろうと部長の下で
「昭和26年8月24日。それは済々黌の水球チームが待望の初優勝をなしとげて、全国制覇の夢を実現させた記念すべき日であった。・・・‥・優勝杯を手にして選手一同しばし感激の涙にむせんだのであった。迫りくる夕やみの中に部長の私を中心に選手、先輩ひとかたまりになって手をとり合ってうれし泣きに泣いたあの時の劇的な情景は今だに私の脳裡を去らない。全く歴史的な感激の一瞬であった」-昭和38年2月発行の済々黌創立80周年記念号「多士」に同黌水球部長の平田忠彦はその喜びをつづっている。
済々黌に水球が生まれたのは戦後間もない昭和21年の夏であった。その間のいきさつはすでに書いたのでここでは省略する。水球部の部長は吉田長善、八重島香二、山田繁と引き継がれ26年から平田忠彦がめんどうを見た。そのいずれも“水球”についてはしろうとであった。技術的には県水協の古荘次平、飯田寿平らの熱心な手ほどきに始まり、その後は若い先輩たちが入れ替わり、立ち替わり母校のプールにやってきて、その練習にハッパをかけたのである。そして末弘杯水上競技大会で知られる西日本高校水上では17連勝の快記録を残した。
ところで、この済々黌水球チームが、全国制覇の目標に一歩近づいたのは25年の全国高校水上大会だった。安浪渡、古賀伸一郎、田代二生、大坪大学といった名選手をそろえ、決勝戦で慶応高と対戦した。一進一退の互角に渡り合い、最後は反則負けで準優勝に終わった。しかしチーム力からすれば史上最強といわれ、その不運に選手たちは涙を流したものである。
インタハイで勝つ
だが、その宿願を果たす日は翌年に訪れた。
26年の水球部は平田部長、安浪渡コーチで選手は次の11人だった。
主将の佐伯卓三、菅原平、竜川武弘、大島淳之助、川北文男、坂田定苗、田久保徹、水垣憲治、田代晃一、中村允、井上融。
主将の佐伯は平泳ぎの選手としても県下で1、2位を争うスピードがあった。選手はみんな水球の虫だった。なかでも副主将格の菅原は研究熱心だった。授業中によくノートをとっていると思うと、それは水球のフォーメーションの研究に没頭しているのだった。この二人のほか3年生の竜川、大島、川北、坂田は旧制中学最後の済々黌入学。学制改革で併設中学となり、済々黌在学6年目だった。1年先輩に好選手がそろっていたため試合に出るチャンスがなく、長い下積みの苦労ばかり重ねていた。“いつかはきっと試合に出てやるぞ”と歯を食いしばって下積みに耐え、やっとそのチャンスがめぐってきたのだ。試合がやりたくてうずうずしていた連中はかりである。新人とはいえ、高校水球選手としてはすでにべテラソの域に達していた。
当時の日本高校選手権水上競技大会は、東西対抗の形式で行なわれていた。済々黌はまず8月18日から奈良県の天理プールで開かれた西部高校選手権水上大会に参加し、準決勝で天王寺高(大阪府)を15-1で一しゅう、決勝でも福岡高(福岡県)を9-5でくだして優勝。西部代表校として東京神宮プールで日本一を争うことになった。
水球決勝戦は8月24日午後5時20分から行なわれた。相手は前年の大会で反則負けした慶応高(東京都)だった。“相手にとって不足はない。昨年のかたきをとってくれ”と安浪コーチは選手を励ました。気温31.5度、水温28度とコンディションは上々。スタンドは超満員で、その中には在京の先輩たちが懸命に声援を送る姿が見られた。
試合は開始後2分にLB水垣が先制シュートを決めた。CF竜川とRF菅原の攻撃コンビのシュートもあって前半5点をあげ、2点をリードした。だが後半に入ると慶応も前回の優勝チームらしいうま味を発揮し、またたく間に同点に追いついた。その後はファイトとファイトがぶつかり合って激しい攻防となったが、済々黌FW陣は必死のがんばりでついに2点をあげ、7-5で強豪慶応をくだした。
初優勝。だがその栄冠に喜ぶより、選手たちほ試合終了と同時に精根尽き果て、プールからはい上がるのがやっとという激しい決勝戦だった。日本水連会長田畑政治から金色の優勝杯が主将の佐伯に授与され、初めて喜びがわいた。選手たちは平田部長、安浪コーチを中心に抱き合って泣いた。戦後の済々黌運動部にとって、この優勝は最初の全国制覇であった。
「万年優勝候補」の汚名をそそいだこの優勝が、済々黌水球部の伝統を築くのにどれほど力があったかしれない。「地方熊本でも練習いかんでは優勝できる」 「技術的には中央チームにも劣らない」という自信と希望を与えた。それが現在の済々黌水球部のなかに生きて“水球の済々黌”か“済々黌の水球”かといわれる名門チームとなっているのである。
初の全国制覇メンバー
前列左から竜川、佐伯、菅原。後列は水垣、田代、大島、田久保
後は顧問の江口先生と部長の平田先生
(続く)
by swpc
| 2014-09-04 11:12
ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム
by swpc
Note
濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
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