新熊本の体力(1)

 8月6日、7日および10日の3回にわたり、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」の中で、済々黌水球部の歴史が紹介されました。50年前に連載された「熊本の体力」の新シリーズですが、前回掲載した50年前の記事と比較しながらお読みください。

 熊本に水球がお目見えしたのは1946(昭和21)年。県水泳協会の発足を記念し、熊本・福岡対抗水上競技大会の公開競技として行われたのは始まりだ。同年秋には五高、熊中(現熊本高)、中学済々黌(旧制)などから5チームが出場し、第1回県選手権が開かれている。熊中、済々黌に水球部がつくられたが、唯一残ったのが済々黌だった。
 新制高校となった済々黌は、48(同23)年から全国高校水上大会(現在のインターハイ)に出場する。水球は素人の教師が部長となり、県協会の経験者らが指導、初陣でいきなり準優勝した。49年3位、50年準優勝と好成績が続いた。しかし、部長担当の教師が毎年入れ替わり、ついには部長不在。さらに、学校も遠征費を出し渋るなど水球部は存続の危機に見舞われた。
 そんなとき、済々黌にやってきたのが平田だった。前任の教師に「お前たちの力では全国優勝はできん」と断られた生徒たちは困り果てた。「平田先生は昔陸上ばしとらしたてよ。水球は知らっさんでよか、頼んでみゅう」と、来たばかりの平田に白羽の矢を立てた。翌51(同26)年春、平田は国語の教べんをとるかたわら、水球部長に就任した。
 平田は熊中から東洋大に進み漢文を専攻した。熊中時代は陸上部で、東洋大4年生で箱根駅伝往路の“花の2区”を走っている。大学を出て、宮崎高女を皮切りに埼玉・浦和高、愛知・名古屋幼年学校から熊本に帰って大津高で教壇に立ち、50(同25)年済々黌に赴任した。以後、定年を迎えるまで済々黌を離れることはなかった。
 「やれる者はどこまでもやり抜け。力がない者はやれる限りやれ。やれたシコがああたが人生タイ」。平田が亡くなった時、教え子の菅原平(52年卒、メキシコ五輪水球コーチ)が熊日に寄せた追悼文の一節で、平田が勉学と部活の両立に悩む教え子に掛けた言葉だ。「辛抱強く待ち、生徒たちのやる気を引き出す」という平田の指導法をよく表している。
 平田の“魔法”にかかった部員たちは名選手に生まれ変わる。1年目、51年のインターハイで東京の慶応を7-5で下し念願の全国制覇。53(同28)年には京都・山城を退けて2度目の優勝。快進撃が始まった。
※写真は平田忠彦部長(上)、菅原平(下)
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by swpc | 2014-10-16 18:57 | Trackback | Comments(0)
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ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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