<   2011年 11月 ( 5 )   > この月の画像一覧

国体2度目そして最後の全国制覇!(続き)

 前回記事で、この昭和43年の国体優勝を濟々黌水球部の歴史の中でも特筆すべき勝利と書いたが、特筆すべきことはこれだけではなかった。実は部史上初めて、インタハイ全国大会に出場できなかったのである。つまり、九州地区予選で4位に終り、全国大会への出場権が与えられる3位以内に入れなかったのである。これは九州各県の高校の実力が急速に高まっていたこともあったが、濟々黌自体が実力を発揮できなかったことが大きい。これはある意味で、この年のチーム事情をよく表した出来事だった。私はこの年地元熊本に就職し、このチームの様子を春先からつぶさに見てきた。現役時代と変わらない体力を維持していた私に矢賀コーチから与えられた使命は、実戦練習でのエース西田へのマンマーク。前年のインタハイ優勝チームから3年生4人が抜け、春先こそチーム力が落ちていたが、シーズンが進むにつれ、徐々に力をつけて行った。ただ、このチームが前年と明らかに違っていたのは主将宮田と西田への依存度が高かったことだ。ということは二人の調子いかんがゲームを左右する。とりわけポイントゲッター西田は好不調の幅が大きく、チームの出来を左右した。しかし、私はまさかインタハイ全国大会の出場権を失うとは夢にも思っていなかった。
 九州大会から帰って来た彼らは明らかに目の色が変わっていた。東京合宿も行い、国体前の頃になると西田は私の手には負えなくなっていた。プールサイドで見ていた先輩の木村さんが「もうお前には西田は押さえられんなぁ」と言われたのをよく憶えている。私も多分高校生で西田を押さえられる選手はいないだろうと思った。上位入賞どころか優勝だってあり得る、と確信したのはその時である。
(柴田範房)


大洋デパートでの国体優勝祝賀会の模様

[PR]
by swpc | 2011-11-24 17:02 | Trackback | Comments(0)

国体2度目そして最後の全国制覇!

 昭和43年(1968)の福井国体における優勝が、現時点では濟々黌水球部最後の全国制覇となっています。それまで国体では運に恵まれなかった済々黌の念願の二度目の国体制覇であることも合わせ、濟々黌水球部の歴史の中でも特筆すべき勝利の一つであることは間違いないと思います。この「最後の」という形容詞を外す日が来ることを願わずにはいられません。
 この大会の模様を平田忠彦先生著「日本高等学校水球三十年史」で振り返ってみました。この年の私の想い出は次回に述べたいと思います。
(柴田範房)


 第23回国体夏季大会は9月4日から7日まで福井運動公園水泳場(競泳)、福井市営三秀プールで行なわれた。国体が人口百万以下の県で実施されるのは今回がはじめてというわけで今後への一つのモデルケースといわれた大会であったが、「明るく、きよく、たくましく」というスローガンの通り、75万県民の一致団結した国体への協力はすばらしいものがあり大成功裏に大会は終了した。
 さて開会式は皇太子殿下をお迎えしての型通りのものであったが、明治百年というので選手宣誓の中にもそれがとりあげられて話題をよんだ。また県花水仙の裾模様の美しい和装のコンパニオンたちの福井駅での歓送迎も印象に残っている。
 水球には参加チーム20。かつてない数にのぼり、四日間の期間中での消化にやや無理を生ずるということで、次年度からは地域予選を行って16チームに限定することになったわけであるが、とにかく国体水球開始以来の最大参加数を記録した歴史的な大会であった。
 結果は熊本県が優勝したが決勝リーグの成績は次の通りであった。
d0251172_1565049.gif


 濟々が会心のプレーで優勝候補筆頭の臼杵を破った。
 濟々は第1クォーター臼杵の荒いプレーからペナルティを拾って西田がまず1点。4分すぎには敷島からのパスで大分守備陣を右に振った西田が再び左から見事なシュートを決めた。第2クォーターは臼杵が泳力にものをいわせて攻めたて1点をかえしたが、濟々は第3クォーター2分すぎ浜田-敷島からのボールをエース西田がふり向きざまのあざやかなフローティングシュートを決め、さらに3分30秒、ペナルティーを加えて振り切った。インタハイ1位の臼杵は意外に元気がなく、ポイントゲッター西田をフルに生かした濟々のチームプレーに屈した。(長谷川)

d0251172_15205176.gif


 濟々は臼杵に勝った安心感からか、この試合ではやや精彩を欠いた。エースの西田が徹底的にマークされたせいもあるが、点をとるとすぐに返され、つねにリードしながら結局は引き分けに持ち込まれてしまった。
 第2クォーター1分48秒、濟々は西田、浜田の連続シュートがゴールポストに当たってはね返り、相手GKがホッとしたすきに門司がすかさず押し込んで先行した。しかしその直後、新潟のすばやい反撃に正面を割られて1-1。さらに3分すぎ、門司の長いパスを受けた西田がクリーンシュートを決めたが、これも30秒後には返されて再びタイ。第4クォーターは柏崎ゴール前の混戦からダブルファウルをとられ、双方ペナルティーシュートを決めて3-3の引き分けに終わった。(長谷川)

d0251172_1537391.gif


 濟々黌が前半積極的に攻めてリードを奪い、後半の長崎の追撃を振り切って待望の国体初優勝を果たした。
 第1クォーター1分11秒、濟々は西田のフリースローを敷島が受けて、ゴール左すみにシュートを決め1点先取。第2クォーターは動きの鈍くなった諫早陣に攻め入り、浜田-西田のリレーシュートで2点目をあげた。第3クォーターは、濟々が初めてセンターボールをとったが、諫早の早いつぶしで得点に結び付かず混戦。2分22秒西田がペナルティシュートを拾ったが、諫早はすぐペナルティを返した。
 第4クォーターは開始直後の22秒、諫早は林がペナルティシュートを決めて1点差に追いすがり、さらに激しく迫ったが、濟々も必死に動いてそのまま逃げ切った。この日の濟々黌は、前半のチームプレーで勝利を決めたが、81の反則が示すように後半は守る一方。攻めても得点にならなかったシュートが7つ。気力だけで勝ったような試合だった。(岩下)
(熊日紙)

 予選トーナメント
d0251172_169086.gif

d0251172_1692066.gif


(注)文中、「国体初優勝」とあるのは、昭和33年に水球が天皇杯得点種目となってからは初めての意。


平田先生を囲んで、前列左から敷島(3)、西田(3)、宮田(主将3)、谷口(3)
後列左から浜田(2)、松田(2)、神谷(2)、藤木(2)、門司(1)

■大会スナップ(各写真をクリックすると大きなサイズで見ることができます。)
 写真は上から順に
 ▼宿舎でのミーティング ▼予選トーナメント対城西高(東京)戦
 ▼予選トーナメント対茨木高(大阪)戦 ▼決勝リーグ対臼杵高(大分)に勝利
 ▼決勝リーグ対諫早商(長崎)戦 ▼ポイントゲッター西田
 ▼歓喜の平田先生のプール投げ込み ▼福井市民の熊本県応援団
 ▼優勝の表彰を受ける宮田主将 ▼閉会式で感涙にむせぶ選手たち

 

 

 

 

 

[PR]
by swpc | 2011-11-16 16:44 | Trackback | Comments(0)

インタハイ5度目のタイトル(昭和42年)

 第35回インタハイ水泳は8月18日から21日まで福井市に於いて行なわれた。
 競泳は県営プール、水球は市営三秀プールであった。
 水球のリーグには臼杵・濟々黌・関西・川口の4校が残ったが、皆同程度のチームで実力に差がなく、同点引分け試合が多かったが、結局は濟々黌が優勝。五度目の全国制覇をなしとげた。結果は次の通りである。
 今年の濟々黌チームにはこれという傑出した選手はいなかったが、関西高校と2-2で引き分けたのが非常なプラスとなり、川口には4-3で辛勝、臼杵とは3-3で引き分けたが、勝点4で六年ぶりに優勝をとげる事が出来た。


※平田忠彦著「日本高等学校水球三十年史」より


平田先生を囲んで前列左から田代(3)、木村(3、主将)、園田(3)、木本(3)
後列左から谷口(2)、敷島(2)、宮田(2)、西田(2)、浜田(1)


【補記】
 平田先生の記述の中に「傑出した選手はいなかった…」とありますが、少し補足させていただくと、高校水球界はかつての濟々黌・鴨沂の二強時代から、新興チームの実力向上が目覚ましく、群雄割拠の時代に大きく変わりつつあった頃でした。済々黌の過去の優勝チームと比較して、この年のチーム力が劣っていたということは決してありません。私はこの年、大学4年でまだ現役のプレーヤーでしたが、就活のため8月には熊本に帰り、毎日彼らの実戦練習の相手をしていましたから、彼らの強さを肌で感じていたものです。結果的にこの年のインタハイ優勝に続き翌年には国体優勝も果たすわけですから、その強さは証明されています。
(柴田範房)

[PR]
by swpc | 2011-11-08 00:10 | Trackback | Comments(0)

会津若松国体(昭和36年)の想い出(2)

▼いざ決戦へ・・・そして

 鶴ヶ城内の宿舎「西澤別館」を出て会場まで徒歩で行く。将棋の駒を手に余裕の表情の面々。いよいよインターハイ、国体の完全優勝を目指して決勝戦がスタート。楽にセンターボールを取り前半が始まった。前半で1点をリードした我々は大失敗さえ無ければこのまま行けると思い後半に臨んだ。試合展開は相手も天下の鴨泝高、そう簡単には点を取らせて貰えない。そんな中で急にレフェリーMr.Kの笛が…。普通ならオーディナリーファウルまたは反則にはならない程度の動作で桑山2回、村山2回の退水で4点を取られて逆転されてしまった。一方こちらは桑山が唇を切る反則を受けて、レフェリーにアピールしても受け入れられず続行。そのような状態が続き、観客席からもレフェリーへの罵声も飛び交ったと聞いた。プール内では攻めている最中にも関わらず、小陳は相手チームの選手を攻める方向とは反対方向へ追うなど皆が頭に血が上って冷静な試合に戻れないまま試合終了となり完全制覇の夢は消えてしまいました。
 終了後プールサイドへ上がった我々は怒りも頂点に達し桑山はレフェリーへ脱いだ帽子を投げ付けた後つかみ掛かる寸前まで行ったが、平田先生に後方から抱きつかれ止められた。その場は何とか収まったように記憶している。それからは、プールサイドへ座り込んでしまい動けないまま暫く時間が過ぎた。表彰式で2位の賞状を受け取った後、破って捨てようと言う気持ちになったが先生や学校に迷惑が掛けては申し訳ないので、せめてもの抵抗として表彰状を丸めて後ろ手に持ち顔を上げる気力は無かった。
 その後、競技関係者の間からも疑問の声が上がり、会津若松からの帰りに平田先生、矢賀監督と共に当時丸ビルにあった日本水泳連盟に立ち寄り、事の次第を報告し、対処を求めた。それ以降、Mr.Kは審判員から外された。決勝の夜は、選手達は夫々に食事などに出掛けて大いに暴れまくった逸話も残っている。矢賀監督は部屋でテーブル一杯に空き瓶が並ぶほどビールを飲んで悔しさを抑えておられるように見えました。
 結果は永久に2位、我々は水球人生の中で最悪のタイミングであったと諦めなければならないようだ。また日本の水球界においてもこれ程の汚点を残した試合は他には無いし、今後も無い事を祈りたい。
 当時、学校終了後の5時間近くの練習を重ね体力の限界まで頑張ったのは完全優勝を目指していたからこそ耐えられた事であったのに、一人の心無い人間によって谷底へ落とされてしまうとは予想もしなかった悪夢であった。
 その後、相手チームの鴨沂高メンバーとの交流を通じて感じる事は、この大会の出来事は我々サイドに限らず双方のチーム、選手にとって不幸な出来事である。
(村山憲三)




 この水球史に残る大誤審(といっても意図的な誤審なのだが)を目撃した一人として、村山さんのコメントに少し追加させていただきたい。今、想い出してもあんな異様な雰囲気の試合を見たことはほかにない。最終クォーター、不可解なジャッジに激高した小陳さんは、ゲームはそっちのけで相手チームの選手をゴール前で追い回し、相手選手もゲームそっちのけで逃げ回るといった光景が繰り広げられた。試合終了後、桑山さんに食ってかかられた審判K氏はコソコソと逃げ出す始末。閉会式で並んだ鴨沂高の選手に村山さんが「実力で勝ったなんて思うなよ!」と言い放っていたのが印象的だった。翌日のバス観光では鴨沂高の選手と度々鉢合わせ、桑山さんに睨まれた鴨沂1年生の佐藤君が逃げ回っていた姿を想い出す。(柴田範房)


決勝戦が行われた鶴ヶ城内会津若松市営プール

[PR]
by swpc | 2011-11-03 22:10 | Trackback | Comments(0)

会津若松国体(昭和36年)の想い出(1)

 この映像は昭和36年9月、福島県会津若松市で行われた第16回国体夏季大会の様子です。予選リーグは会津若松市立第一中学校プールで行われました。映像は熊本県選手団の宿舎があった鶴ヶ城内の旅館からバスで試合会場に向かうところから始まっています。市民から大歓迎を受けている様子が見てとれます。義宮様(現常陸宮様)が水球競技の視察に来られた様子も映っています。試合は1回戦か2回戦か不明ですが、済々黌の帽子のナンバーに大きい数字が見られるので、私は上がりでカメラを回した記憶があります。全体的に余裕のあるゲーム運びで小陳、坂本、平田等の表情も見ることができます。当時の済々黌水球のゲーム運びは泳ぎ中心でしたが、この試合ではその特長は表れていないようです。ノーマークの小陳がキーパー不在のゴールに投げ込むところは練習時と同じ表情です。多分プールサイドには、京都府の監督川井先生が決勝に向けての偵察に来られていたので矢賀監督も「手の内を見せるような采配はやらないので思うようにやれ」と試合前のミーティングで言われたことを思い出します。この大会は途中で台風に見舞われ、競技日程が1日順延になったり、停電で真っ暗になった旅館の大広間に蝋燭を立て、熊本県選手団が全員黙々と食事をした思い出があります。この後の決勝戦だけは、メーン会場の鶴ヶ城内会津若松市営プールで行われました。その様子はまた後日掲載します。
(村山憲三)



[PR]
by swpc | 2011-11-01 18:53 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


by swpc

プロフィールを見る
画像一覧

Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

以前の記事

最新のコメント

最新のトラックバック

検索

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧