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異色の先輩 ~ 財津一郎さん ~

 昭和57年(1982)の済々黌創立100周年を記念して熊日新聞では「キナ線100年 済々黌人物誌」という連載を掲載しましたが、その中には済々黌水球部の異色の先輩、俳優・財津一郎さんについて触れています。今回はこの記事をご紹介します。
(柴田)

▼気を吐く水球部 -スポーツ黄金期 -

 22年、水替えを終わったばかりの済々黌のプールサイドで、泣きながら喜びにひたっている生徒たちの一団があった。そのなかの一人に財津一郎がいた。財津は「母校のプールは終戦の名残をとどめ、雨水はたまっていても緑色に苔がむし、底はぬるぬるで、夕立ともなると食用蛙の合唱である・・・待つ事久し…水色の水がカルキの匂いをただよわせ、全校あげてのプール開きを迎えた日の感激は忘れられない」とのちに記している。彼らは水球部員だった。
 古庄次平(元ベルリンオリンピック選手)、飯田寿平(元県水泳協会理事長)の勧めで戦後生まれた済々黌の水球は、平田忠彦(44年まで監督)という優れたゼネラルマネジャーを得、東京の大学に進学した先輩がことあるごとに全国のトップ技術を後輩に授けたことにより飛躍的に強化された。
 「はがき通信」によってポジションごとのアドバイスがあり、夏休みには帰省したOBたちから実地に指導を受けた。部員たちも先輩のいる早稲田、日大と遠征し、大学選手とぶつかり合った。こうして26年のインタハイ優勝を皮切りに、28年にも優勝、32年には国体優勝を遂げる。35年インタハイ、43年再び国体優勝。末弘杯(西日本高校選手権)では実に24年から39年まで16年連続優勝という前人未踏の記録も作った。国体、インタハイ、末弘杯優勝延べ23回、プールを巣立ったオリンピック、アジア大会、ユニバーシアードなど国際試合出場者延べ55人という不滅の記録が生まれる。
 しかし35年の熊本国体では2位に甘んじた。創立時のOBで30年以来コーチを務める矢賀正雄(22年卒、西山中教諭)は「決勝前日、県選手団の役員が入り代わり立ち代わり宿舎を訪れ『水球が優勝せんと0.5点差で総合優勝でけん』という。当日はプレッシャーがかかってコチコチ。あとで実は計算間違いとわかったが、すでに遅かった」と笑う。
 草創期に意外なエピソードがある。インタハイ初優勝のときのフォワード菅原平(27年卒、メキシコオリンピック水球監督)は「“フジヤマのトビワオ”古橋さんらが全盛のころ。あこがれの競泳を捨てて水球をやるなんてバカバカしくて気乗りしなかった。しかしやってみると非常に面白い。それでも競泳へのあこがれはしばらくは続いた」と語る。当時、プールの水替えはままならず練習用につけた六尺べこは藻などで緑色に染まった。
 現在の監督は吉邑紀義(33年卒、済々黌教諭)、国体初優勝時のキャプテンだ。このほか藤本重信(同、ローマ、東京オリンピック選手)、桑山博克(37年率、メキシコオリンピック選手)らが忘れられない。
 これらの名選手を生んだ齢(よわい)50年のプールは取り壊され、来年3月には公式戦のできる縦25㍍、横33㍍の本格的プールへと装いを一新する。

 財津一郎は入学当初、水球に情熱。いったん阿蘇農高に転学したあと復学、今度は演劇や自治会活動に打ち込んだ。水球をそのまま続けていたら26年インタハイ優勝のメンバーに入るはずだった。進路が変わっていたかもしれない。

  

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by swpc | 2013-05-24 11:44 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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