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スポーツ王国 済々黌

 戦後、済々黌が県下のスポーツ界をリードした要因は何だったのか。昭和45年(1970)11月6日の西日本新聞の記事の中からそれを探ってみたい。
(柴田範房)


■めぎましい活躍
 戦後の済々黌は、またスポーツ界でも県下のリーダー的役割りを果たした。文化部と同様、23年の済々黌新聞に目を通すと、体操、陸上競技、水泳、野球、庭球、卓球、相撲、蹴球、ラグビー、排球(バレーボール)籠球(バスケットボール)送球(ハンドボール)野外運動の13のクラブが名を連ねているが、これらの各部に優勝経験のないものはないといっていいほどの、めざましい活躍ぶりである。
 この前後の同黌新聞を見るがいい。毎号の紙面は『県大会に堂々優勝』『県下の王座に』『いぜん破竹の勢い』『またも全勝』といった、景気のよい見出しで飾られている。まさに百花りょう乱といったにぎやかさである。『ひところの済々黌では、国体ともなると、1クラス分ぐらいの選手が県代表として出場のため、ゴソッと教室から抜けたものだ』とは、今春同黌を退職した元教諭中島桂介(昭和4年卒、熊本女子短大教官)の思い出だが、それもなるほどとうなずける実績である。
 これらのなかで、全国優勝の輝かしい栄光をになっているのは、野球、水球、ハンドボール、陸上競技、体操の五部。なかでも水球は26年のインターハイを皮切りに、一昨年の国体まで前後7回にわたって全国制覇をなし遂げた。戦前の剣道(10回優勝)にまさるとも劣らない快挙であろう。
 昨春まで20年間同黌水泳部長をつとめた平田忠彦(今春退職、現県水泳協会理事長、尚絅高教諭)は 『20年というもの、少なくとも3位以上を確保する努力は、なみたいていではなかった』という。宿願の初優勝、28年国体の優勝はことに思い出深い。この年は熊本を襲った空前の大水害で、7月中はプールの水替えはおろか、プールは被災者の洗たく場と化して、練習どころではなかったのだから。

■優秀な指導者たち
 この栄光の中から、ローマ、東京、メキシコと3回のオリンピックに7人の日本代表選手が育った。ローマ大会には宮村元信 (30年卒)藤本重信(33年季、現日大水球監督)柴田徹(34年卒)東京大会は藤本。メキシコ大会にはコーチとして菅原平(27年卒、現日本水連水球審判部長)選手に米原邦夫(35年卒、同水球委員)桑山博克(37年率)坂本征也 (38年卒)という顔ぶれ。一校からこのように多くのオリンピック選手を生んだのも、全国的に珍しいことに違いない。
 この〝勝利″の裏付けとして、中島は選手たちのおう盛なファイト、優秀な指導者、指導助言の忠実な実行の三点をあげている。水球は平田、陸上(30年インターハイ優勝)は中島という得がたい指導者を得たように、ハンドボール(29年国体優勝)には藤田八郎(現在も同黌教諭)というリーダーがいた。彼は『面白いスポーツを教ぇるから、体格のいい者集まれといったら、もと相撲部員がずらりとやってきた。水球などに刺激されて〝ひとつオレたちも”という気迫が優勝へ導いた』と語る。
(昭和45年11月6日西日本新聞)

▼昭和39年(1964)東京オリンピック水球に出場した藤本重信選手を迎えた済々黌教員一同
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by swpc | 2014-07-26 21:38 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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