映画「東京オリンピック」と水球

 もう7年も前になるが、東京オリンピックの記録映画(市川崑監督)に関してある発見をした。ネットでオリンピックについて調べていたら、南都上緒さんという方の「なんとかかんとか」というサイトに行き着いた。この方は、映画の関係者だったのか、この映画の製作裏話が記載されていた。その中に、次の記述があった。

************以下、原文のまま************

脚本を見ると、「 水球。決勝。水中撮影で選手たちの下半身の激しい動作、それに伴う水の乱れを捉えたい。」とあるのだが…。

************************************


 公開された映画にはこんなシーンはない。しかし、私は50年前の出来事を鮮明に憶えている。
 私は当時大学1年生で、オリンピック終了後、映画「東京オリンピック」の追加シーンの撮影に参加した。そして、確かにこの脚本にそったシーンを撮影した。しかし、結局、そのシーンを映画で見ることはなかった。
 南都さんにメールを出してみた。すぐに丁寧な返事が来た。このシーンはオリジナル版(劇場公開版)、ディレクターズカット版、ともに入っていないと。
 南都さんによれば、東京オリンピックで銅メダルを獲った男子バレーボールチームも、後日、追加撮影をしたそうだが、結局使われたのは金メダルを獲った東洋の魔女チームだけだったと、男子の監督だった松平康隆さんが著書で述懐していたそうである。この映画の公開直後、その記録性について、市川崑監督と河野一郎国務大臣(オリンピック担当)との間で激しい論争があったことは記憶に新しい。
 結局カットされたものの、たしかに脚本に書かれていたことを確認できたことは嬉しかった。この映画の脚本は和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑という大物4人の共同執筆である。この部分を書いたのは、このうちの誰だろうという新たな興味も湧いた。
 その4年後のメキシコオリンピックの記録映画には、この脚本そのままのシーンが出てきて驚いたことを思い出す。
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柴田範房

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# by swpc | 2014-04-12 20:47 | Trackback | Comments(0)

ジョルジ・カルパティのこと。

 再びやってくる東京オリンピック。どうしても1964年の東京オリンピックのことを想い出してしまう。東京1964 の水球はハンガリーチームを抜きにしては語れない。前年のプレオリンピックにもやって来ていたので余計印象が強かったのだが、前評判通り優勝した。そのハンガリーチームのエースがカルパティだった。当時29才でおそらく現役選手としての最晩年だったと思う。このユダヤ系ハンガリー人の特筆すべきは、身長なんと167cmで日本代表の選手たちより小さかったことである。しかし、その泳ぎのスピードとボールテクニックの素晴らしさは目を見張るものがあった。大会前の東京体育館での公開練習やテストマッチを見るために多くの大学生・高校生が日参したものだが、日本人にとって最も参考になる選手であったことは間違いない。私が個人的に特に素晴らしいと思ったのはミドルシュートのスローイング技術で、真似したいと思って練習に励んだものだがなかなか難しかった。
 ハンガリーチームは大会本番の決勝リーグで強豪ユーゴスラビアに苦戦しながら、彼の大活躍により引き分けに持ち込んだことが結局優勝につながった。
 スポーツ・サイトの紹介記事を引用して補足してみると

ジョルジ・カルパティは、アウトサイド・フォワードとして、その泳ぎのスピードを活かしていた。全盛期には、世界で最も泳ぎの早い水球選手といわれていた。17歳の時に1952年のヘルシンキ・オリンピックで最初の金メダルを獲得し、続いて1956年にメルボルン・オリンピックで二つ目の金メダル、1960年のローマ・オリンピックでは銅メダルに終わったものの、次の1964年東京オリンピックで三個目の金メダルを獲得した。その他、1954、1956および1962年にはヨーロッパ選手権で優勝したハンガリーチームのメンバーでもあった。現役を引退した後は1976年のモントリオール・オリンピックの金メダルなど数多くの世界タイトルを獲ったハンガリーチームのコーチも務めた。国際水泳殿堂入りも果たしている。
柴田範房

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# by swpc | 2014-01-23 17:34 | Trackback | Comments(0)

熊日社会賞の受賞!(昭和38年)

 済々黌水球部は昭和38年に「熊日社会賞」を受賞した。これは部の歴史上、特筆すべき栄誉であり、後世まで語り継がれるべき出来事でもあった。平田忠彦先生の「九州高等学校 水球三十年史」の中から引用させていただき、この受賞を振り返ってみました。
(柴田)


 この年は済々黌にとっては誠に記念すべき年であった。それは熊本の地元紙である熊本日日新聞社の社会文化賞を受賞したことであった。これは熊本のスポーツ賞としては最高のものであっただけに皆のよろこびも一入であった。当時熊本の第二高校の校長であった広永政太郎氏の文で、熊日紙の夕刊を飾った文を掲載して当時の思い出としたい。

済々黌水球部の受賞
 済々黌水球部が、「日本水球の向上と選手育成に対する貢献」 という功績で、このたび熊日社会賞を受けたことは、まことに特筆すべき大快事であった。
 この社会賞受賞は、学校関係の団体として、実はこれが初めてであるが、高校スポーツ界の栄誉というよりも、その真価が社会的にも堂々と評価されたわけで、その教育的意義もまことに大きいといわねばならない。
 すばらしく、見上げるほどのりっばさだと思うのは、これが実に戦後になって初めて練りあげられた、新しいしかも根強い伝統だからである。あの悪条件にみちた終戦の翌年夏の発足以来ここに十七年、地方的な幾多のハンディをもちながら、全国征覇五回、未弘杯大会優勝連続十四回の快記録はまさに驚異であり、郷土の誇りともなった。さらには幾多のオリンピック選手を世に送り、またアジア大会など多くの国際試合にも出るほどの日本の代表選手を年ごとに産み出す母体となったことを合わせ考えるとき、この水球部の貢献は学校スポーツとして内容的にみて、断然他を遠く引き離しているのである。受賞に当たり、ここまで育て上げられた学校当局の理解と協力もさることながら、平田部長、矢賀先輩コーチに心から敬意を表したい。また、部の結成当初より絶えず指導と激励を続けられた県水協の古荘、飯田両氏他多数の方々の陰の力も忘れてはならないと思う。
 ある種目で全国征覇を遂げた例は県下でも珍しくはないし、高体連でもその年ごとに表彰するのであるが、これほど長く息の続いた種目は他に見当たらない。特筆大書すべきことながら、特別褒賞の規定もないまま今日に及んだしだいであった。まさに熊本県高校スポーツ界のオベリスクであろう。八十年の伝統をもつ高校が、この新しい種目にも、ゆるがぬ伝統として固め上げた事実は興味と示唆に富むことである。
 練習試合の相手もなく「水球の済々」と全国的に名をあげ得た事実の底には、部員の心の結束、地味なたゆまぬ努力と忍苦の歴史がひそんでおり、先輩、後輩の血の通った連帯感の強じんさが大きな基底となっていることに、深く思いを沈めるべきであると思う。(広永政太郎)

▼受賞年度のチームメンバー
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# by swpc | 2013-12-25 16:15 | Trackback | Comments(0)

再び東京オリンピックがやってくる・・・

 7年後に再び東京オリンピックが開催されることが決まった。今から51年前、2年後に東京オリンピックを控えたある日、西日本新聞に次のような記事が掲載された。この記事を読んでいると、日本の水球界の構図が大きく変化したこと、その一方で世界の水球における日本の地位は少しも上がらず、むしろ下がり気味であることをあらためて思い知らされる。はたして2回目の東京オリンピックはこんな状況を打破するきっかけとなるのだろうか。
(柴田範房)


 水連内部で最も影が薄いのが水球だ。二十四年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに一勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と六位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
 肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立八十年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和二十一年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と十二年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和二十九年、第二回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌三十年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。三十二、三十三年のパリの国際学生大会、第三回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大) の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
 しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算四回準優勝五回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝一回、準優勝五回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では十三年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校四十人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が九人いる。なかでも全国四名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。一㍍七五、七三キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
 「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
 小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
 済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
 「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日三時から四、五時間の練習です。昨年は十一月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。

▼済々黌水球最強の年、昭和36年の3年生(村山・入江・小陳・桑山と平田部長)
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# by swpc | 2013-11-28 20:58 | Trackback | Comments(0)

懐かし映像(矢賀さんの激励会)

 今回は村山憲三さんからご提供いただいたDVD映像の中から、下の映像をご紹介します。
 これは平成14年(2002)4月11日に、東京の六本木にあるレストラン(元水球日本代表FW清水洋二さんが経営するお店)で行われた矢賀正雄さんの激励会の模様です。矢賀さんの闘病生活を経ての平癒と再起を祈って水球仲間が集まりました。平田先生ご夫妻や済々黌OBはもちろんのこと、かつての宿敵・鴨沂高校の元監督川井千仭先生を始め、竹内和也さん、次也さん兄弟など珍しい顔が揃いました。
(柴田範房)



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# by swpc | 2013-10-16 21:19 | Trackback | Comments(0)

第28回国体(千葉・若潮国体)の記録

 村山憲三さんから送っていただいたDVDの中に収められた映像の中に、まだご紹介できていないものがいくつかある。その中から今回は昭和48年(1973)の千葉国体の映像をご紹介したい。
 この大会の概要については平田忠彦先生の「日本高等学校水球三十年史」から引用したい。

 「若潮国体」と銘うった第28回国体夏季水泳は9月9日から12日まで県都千葉市の総合運動場プール(競泳)と同じく千葉市の高洲市民プール(水球)とで行われた。競泳会場となった総合運動場は市の東端5キロの地点にあり、43万平米という広大な敷地の中に野球・陸上・サッカー・庭球・プールなどの競技施設の他に、最新の設備を誇る大体育館や合宿所なども完備し、充実した運動公園であった。
 一方高洲プールも稲毛海岸の埋立地の一角、今海洋公民館として皆に親しまれている元巡視船「こじま」のすぐ側にあり、やがてはマンモス遊園地・海洋公園の中心となる予定のプールだそうで立派なものであった。千葉は東京に近く、所謂首都圏国体と呼ばれ、市民の関心が薄いといわれていたが、結構観客も多く、まあまあの国体であった。
 水球競技は、群馬・鹿児島・岡山・千葉の四県が決勝リーグに進出、優勝を争ったが、地元千葉がやや、ぬきんでている他は、すべて同じ程度の実力のチームで、甲乙つけがたかったが、結果は千葉が3戦全勝で優勝、他は得点失点の率によって順位が決まった。2位鹿児島、3位群馬、4位岡山であった。

 平田先生のこの文には熊本については触れていないが、残念ながら予選トーナメント1回戦で広島に5-6で敗退している。映像には1回戦の熊本対広島の模様や、応援に駆けつけた諸先輩、そして皇太子殿下(現天皇陛下)ご夫妻のご臨席の様子が写っている。

 この大会は全員済々黌のチームでメンバーは次のとおり。
 【監督】吉邑紀義
 【選手】芹川慎介(2)、宮崎祐吉(2)、本島尚(3)、下田龍生(1)、下田昌二(3)、本永健次(2)、植野清也(2)、興侶克己(1)、千馬伸男(1) 

(柴田範房)
    


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# by swpc | 2013-09-24 09:01 | Trackback | Comments(0)

平田忠彦先生の夏目漱石「坊っちゃん」書評

 今年2月、平田忠彦先生の御子息であり、私の同級生でもある和彦君が、「父がこんなものを書いているよ」と一冊の本を持ってきてくれました。それは平成11年(1999)度の「熊本県民文芸賞」の入選作品をまとめた作品集でした。その中に収められた一篇が、平田先生が書かれた「漱石の『坊っちゃん』を考える」と題する書評でした。とても興味深い書評ですのでその要点を抜粋してご紹介します。
(柴田範房)


 「坊っちゃん」の前半はたしかに松山時代の体験がもとになっていると思われるが、後半は熊本時代の体験がもとになっている。中でも中学と師範との喧嘩の場面などは五高の教授時代に実際に遭遇した事件がもとになっていることは間違いない。松山時代にはこんな事件は起きていない。その事件は漱石が熊本に赴任してから半年後に起きた。五高創立記念大運動会が盛大に行われ、九州各県から招待された中学生のレースも行われた。中でもライバル心が強かった鹿児島尋常中学校と熊本の済々黌中学校との対校レースが行われ、レースは無事すんだものの、その夜、熊本の市街地で両校の生徒による乱闘事件が起き、警察や憲兵まで巻き込む大騒動となった。実はこの頃、漱石は五高教授のかたわら済々黌でも英語を教えていた。乱闘があった場所は漱石が当時住んでいた合羽町からもほど近く、漱石自身がどこかでこの騒ぎを見ていた可能性が高い。それが「坊っちゃん」の乱闘場面でのリアルな表現になっているのではないか。熊本時代の体験をうかがわせる記述は他にもいくつか見られる。
 漱石が「坊っちゃん」を発表した明治39年には、他にも「ホトトギス」、「草枕」、「二百十日」など立て続けに発表しており、「坊っちゃん」は1週間か10日くらいで書き上げたのではないかという評論家もいる。ということは、松山と熊本での様々な体験があったからこそ、書き始めた時にはすでに頭の中で物語は完成していたのではないか。

※写真は漱石が松山から熊本に移る明治29年春に撮影されたもの(当時28歳)
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# by swpc | 2013-08-10 09:38 | Trackback | Comments(0)

炎上

 平田忠彦先生は、生涯ただ一度、短編小説を物されました。それはかつて能本日日新聞が読者から募集し、その中の秀作を毎月曜日の夕刊に掲載していた「サンデー短篇」という企画に応募された時のことです。「炎上」と題するその短編小説が掲載されたのは昭和28年3月16日の夕刊ですが、その挿絵を描いたのはなんとあの坂本善三画伯でした。
 今回はその短編小説をご紹介します。
柴田範房


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# by swpc | 2013-07-12 15:21 | Trackback | Comments(0)

ラウンドパス

 今回は軽い話題を一つ。インターハイや国体などの大会では試合前に公式練習という時間がある。だいたいやることと言えば、まず試合プールを横に何往復か泳いでウォーミングアップをして、コーチの笛の合図でフロントクロールのダッシュを何本か。その後、対面パスやラウンドパスをやって最後にドリブルシュートの練習といった感じだった。僕が入学した1961年は済々黌の全盛時代だったから、済々黌やライバルの鴨沂高の試合前の練習は、他校の選手たちから注目されていた。練習をしている済々黌や鴨沂高の選手たちも十分それを意識しながらやっていて、特にラウンドパスでは徐々にパスのスピードと高さを上げて行き、最後には、これ見よがしに水面からバイクがのぞくぐらい飛び上がるパスを回したりしたものだ。今思えばそんなところでエネルギーを消耗してどうするの、と言いたいところだが、それが若さというものなのだろう。下の写真は1961年のチームのラウンドパス。
(柴田)

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▼下の映像は1950年代後半から1960年代前半、ゴールデンチームと呼ばれたハンガリー代表の練習風景(イェニー、マルコビッチ、ジャルマティらの顔が見える)


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# by swpc | 2013-06-17 15:52 | Trackback | Comments(0)

異色の先輩 ~ 財津一郎さん ~

 昭和57年(1982)の済々黌創立100周年を記念して熊日新聞では「キナ線100年 済々黌人物誌」という連載を掲載しましたが、その中には済々黌水球部の異色の先輩、俳優・財津一郎さんについて触れています。今回はこの記事をご紹介します。
(柴田)

▼気を吐く水球部 -スポーツ黄金期 -

 22年、水替えを終わったばかりの済々黌のプールサイドで、泣きながら喜びにひたっている生徒たちの一団があった。そのなかの一人に財津一郎がいた。財津は「母校のプールは終戦の名残をとどめ、雨水はたまっていても緑色に苔がむし、底はぬるぬるで、夕立ともなると食用蛙の合唱である・・・待つ事久し…水色の水がカルキの匂いをただよわせ、全校あげてのプール開きを迎えた日の感激は忘れられない」とのちに記している。彼らは水球部員だった。
 古庄次平(元ベルリンオリンピック選手)、飯田寿平(元県水泳協会理事長)の勧めで戦後生まれた済々黌の水球は、平田忠彦(44年まで監督)という優れたゼネラルマネジャーを得、東京の大学に進学した先輩がことあるごとに全国のトップ技術を後輩に授けたことにより飛躍的に強化された。
 「はがき通信」によってポジションごとのアドバイスがあり、夏休みには帰省したOBたちから実地に指導を受けた。部員たちも先輩のいる早稲田、日大と遠征し、大学選手とぶつかり合った。こうして26年のインタハイ優勝を皮切りに、28年にも優勝、32年には国体優勝を遂げる。35年インタハイ、43年再び国体優勝。末弘杯(西日本高校選手権)では実に24年から39年まで16年連続優勝という前人未踏の記録も作った。国体、インタハイ、末弘杯優勝延べ23回、プールを巣立ったオリンピック、アジア大会、ユニバーシアードなど国際試合出場者延べ55人という不滅の記録が生まれる。
 しかし35年の熊本国体では2位に甘んじた。創立時のOBで30年以来コーチを務める矢賀正雄(22年卒、西山中教諭)は「決勝前日、県選手団の役員が入り代わり立ち代わり宿舎を訪れ『水球が優勝せんと0.5点差で総合優勝でけん』という。当日はプレッシャーがかかってコチコチ。あとで実は計算間違いとわかったが、すでに遅かった」と笑う。
 草創期に意外なエピソードがある。インタハイ初優勝のときのフォワード菅原平(27年卒、メキシコオリンピック水球監督)は「“フジヤマのトビワオ”古橋さんらが全盛のころ。あこがれの競泳を捨てて水球をやるなんてバカバカしくて気乗りしなかった。しかしやってみると非常に面白い。それでも競泳へのあこがれはしばらくは続いた」と語る。当時、プールの水替えはままならず練習用につけた六尺べこは藻などで緑色に染まった。
 現在の監督は吉邑紀義(33年卒、済々黌教諭)、国体初優勝時のキャプテンだ。このほか藤本重信(同、ローマ、東京オリンピック選手)、桑山博克(37年率、メキシコオリンピック選手)らが忘れられない。
 これらの名選手を生んだ齢(よわい)50年のプールは取り壊され、来年3月には公式戦のできる縦25㍍、横33㍍の本格的プールへと装いを一新する。

 財津一郎は入学当初、水球に情熱。いったん阿蘇農高に転学したあと復学、今度は演劇や自治会活動に打ち込んだ。水球をそのまま続けていたら26年インタハイ優勝のメンバーに入るはずだった。進路が変わっていたかもしれない。

  

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# by swpc | 2013-05-24 11:44 | Trackback | Comments(0)

新九州人国記 ~ プールサイドの情熱 ~

 平田先生が昭和58年(1983)に出版された自叙伝「水と陸と」のあとがきに「新九州人国記」(熊日出版)に掲載された一文が紹介されています。今回はこれをあらためてご紹介します。
(柴田範房)


 昭和21年、五高プールで水球講習会が開かれた。参加したのは熊中、済々黌、五高の水泳選手たち。「水中バスケットボールだ」とタカをくくっていた選手らは、その難しさと体力消耗に驚いて目の色を変えた。これを契機に各校で水球部が結成され、リーグ戦が始まった。
 呼び掛け人は戦前から全日本クラスで水球をしていた古荘次平(故人)と飯田寿平(64)=古城堀端町生まれ=であった。飯田は熊中時代に水泳を始め、早大では水球部キャプテン。戦後、水泳王国熊本の再興に尽くし、プールサイドの御意見番を任じている。晴れがましいことが嫌いな人だ。済々黌の水球部も講習会後直ちに結成され、猛練習が始まった。古荘、飯田らが技術を指導、選手はしごかれた。
 平田忠彦(71)=新屋敷町生まれ=が部長に就任した26年、済々黌は全国制覇を果たす。「待望の初優勝で、記念碑的なスタートでした」と平田は振り返る。この年から済々黌は快進撃、末弘杯で優勝20回、2、3位各4回の水球名門校として全国に鳴り響いた。
 コーチをしたのはOBの木村晋(54)=電気店経営、上通=と矢賀正雄(54)=西山中教諭=らで、卒業生のうち9人がオリンピックに出場した。
 水球部の取りまとめ役をした平田は小堀流の名手。子供時代は藤崎宮裏の白川が遊び場で「白川ガッパ」と呼ばれたほどの泳ぎ上手。選手への立ち泳ぎの助言などは実に効果的だった。自宅二階を合宿所に開放したこともあり、熱の入れようは人一倍。試合で年間60日も出張したという。
 32年間の水球生活総決算に建設した資料館は熊本の水球史そのもの。写真、メダル、プログラムなど平田が参加した大会の資料二千点が所狭し。資料好きの平田らしいと評判である。旧制熊中-東洋大。

※写真は昭和45年(1970)4月に行なわれた平田先生の済々黌ご退職時の謝恩会。
 平田先生ご夫妻をはさんで古荘、飯田の大先輩がたのお顔も見える。
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# by swpc | 2013-04-30 21:21 | Trackback | Comments(0)

水球19年(その4)

▼第三期の黄金時代
 昭和の42年、43年が第三期の黄金時代になる。42年はインターハイ優勝。43年は国体優勝。いづれも場所は福井であった。
 42年の時は木村主将率いるチームで、田代・園田・木本・西田・宮田・敷島・谷口・浜田の諸選手がいた。決勝リーグでは関西、川口、臼杵と当時全国で最も強剛を誇った各チームが相手であったが1勝2引分けで辛くも優勝した。
 43年時も同様で、九州予選で敗退、インターハイには出場出来ず涙をのんだチームであったが、国体時には見違えるようなファイトで次々と勝ち進み、決勝リーグに於ては2勝1引分けて堂々と優勝した。組合せが良かった為もあるけれども3年グループの宮田・西田・敷島・谷口の諸君の活躍は特筆ものであった。
 この第三期の黄金時代からは木村君がオリンピック選手となり、ミュンヘンに渡った。
 さて、私が顧問をしていた19年間の済々黌水球部のあゆみを顧みてみるに、強い年、優勝した年には必ず強力な指導者がいた。チーム全体を引っばってゆく、ちゃんとした主将なり選手なりがいた。よかれあしかれ、勉強は二の次にしてでも部の優勝のために全力を傾注する水球狂がいた。その人たちがチームを優勝に導き、同時に済々黌の水球の歴史を作って行った。済々黌の輝かしい水球の歴史は、皆選手自身が自ら作りあげたものであった。勿論歴代の指導者、安浪君、竜川君、さらに矢賀正雄氏等の偉大なる功績がそれぞれの優勝に貢献し、済々黌の水球の歴史をいよいよ不滅のものたらしめたことは、いまさら言うまでもないことであった。
 済々黌の水球部は純血である。済々黌の先輩後輩だけでつくり上げてゆくのが済々黌の水球部の最大の特色であって、外部からの侵入を許さない。もともと済々黌の水球は終戦後県水協の古荘・飯田両氏の指導によって始められたものではあるが、この古荘・飯田の両氏は勿論済々黌の先輩ではなかったのだけれども、先輩以上に済々黌に対して好意と愛着とを持って居られ熱心に指導していただいた。この両氏が済々黌水球部草創期の大恩人であることは今更らいうまでもないが、其の後は先輩と後輩とのあたたかい血のつながりが済々黌の水球部を今日まで支えて来たと思う。これは今後ともづっと守りつづけて行かなければならない一つの大きな鉄則である。排他的な意味でなしに、済々黌の水球は済々黌のOB諸氏の手によって指導さるべきものであると私は考えている。どんなに困ってももどんなに苦しくても外部からの指導者やコーチに強化を依頼すべきではない。済泳会の存在はそのためのものと私は理解している。私の過去の経験からみても、他の部はいざ知らず、水球に限り済泳会員による指導が最高の好結果をもたらしている。部の純血を守ることがより大きい水球部の発展と栄光をもたらすものと私は確信している。
 この私在任中の19年間にはいろいろのことがあった。校長の好悪により廃部寸前にまで追いこまれたこともあったし、戦に敗れて意気消沈、部解散を唱えた選手もいた。プールの水かえの問題で学校の会計と卓をたたいて論争したこともあったし、日本水連の水球担当者と火の出るようなやりとりをした事もあった。すべては過ぎ去ったなつかしい過去の思い出であるが、歴史は繰り返すともいう。今後もこのような事が再び起きないという保障はない。済々黌水球関係者一同お互い手をとりあって、よりよい明日のために戒心してゆく必要があると思う。
 嘗ての小プールに代って今年水球専用の大プールがすばらしい偉容をみせて以前の場所に完成した。新しい水球の歴史の誕生を心から期待する私である。
 この19年間にはいろいろな方に大変お世話になった。今はなき古荘次平氏並らびに県水協の飯田寿平氏には格別にお世話をいただいた。その他済泳会の木村晋氏をはじめ清田・矢賀・藤本の諸氏さらに太田黒さんや矢島・家入の東京在住の方々など陰に陽に私を支え私を励まして下さった。有難いことであった。
 私は昭和45年済々黌を退職、尚絅高校の方に移ったが、その頃は県の水泳協会の理事長をやり又、県体協の理事などもやっていたので、引きつづき済々黌の水球のお世話などもさせていただき、さらに深まる済々黌と私との縁であった。


昭和42年インターハイ優勝チーム


昭和43年国体優勝、プールへ投げ込まれる平田先生

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# by swpc | 2013-03-26 12:16 | Trackback | Comments(0)

水球19年(その3)

▼第二期の黄金時代
 昭和32年の静岡国体優勝から35年のインターハイ優勝、さらに36年のインターハイ連続優勝、この数年間が第二の黄金時代であった。
浜松国体では吉邑主将を中心に藤本・桑山兄・梅本・北岡・柴田・米村などの諸君でチームを編成した。夏のインターハイで慶応に3-3の反則敗けであったので、何とか国体では優勝をと必勝を期して浜松に向った。浜松の宿舎は市内でも一流の旅館で待遇もよく選手たちも大喜びであった。試合は慶応の不出場で、城北・山城・済々の三チームによるリーグ戦であったが、済々黌の楽勝に終った。
 35年は頂度熊本国体の年であったので「絶対に勝て」という県からの至上命令もあって1ケ月という長期の東京合宿をやったものであった。強化費の関係もあり、低廉な宿舎でなければならないので、当時有斐学舎の幹事をしていられた高森良人先生に御願いして選手を有斐学舎の大広間に留めていただく事にした。食事は粗末だし、蚊は多いし、練習プールは遠いし散々であったけれども、1ケ月という長期の合宿はさすがに選手たちの実力の向上には大いに役立った。島田主将以下入江・大村・奥村・小陳・桑山弟・堀の諸君がそのメンバーであったが、インターハイでは美事に優勝した。熊本国体では残念ながら鴨沂に敗れたけれども地元国体という特殊な雰囲気の中であってみればそれも仕方のないことであった。
 36年のチームは強かった。文句なしの強力チームであった。インターハイは金沢で行なわれたが水球会場は松任であったので毎日汽車で松任プールまで通った。地震はあるし、旅館の待遇は悪いし、その上金沢駅のまん前の宿舎であったために一晩中うるさくて安眠も出来ないような状態であったが、試合は楽勝であった。このチームぐらい安心してみていられるチームは今までにはなかった。済々黌の水球史上最強のチームともいえる強さであった。桑山選手を中心に入江・村山・小陳・坂本・豊永・堀の七選手で固めたこのチームにはこれという弱点もなく完璧のチームであった。矢賀監督が作りあげた強力チームの中でも最高の力を備えたチームではなかったろうか。会津若松での第16回国体には敗れたけれども、これは作為のなせる業でチームの実力とは無関係のことであった。
 この第二期の黄金時代からも名選手が陸続と生れ出た。藤本(重信)・桑山弟(博克)・坂本・米原・柴田徹の五選手はそれぞれローマ・東京・メキシコのオリンピックに選手として出場、日本のために活躍した。済々黌の水球部はいよいよ日本的な存在となって高校水球界に不動の地位を占めることになったのであった。(続く)


昭和32年国体優勝チーム


昭和35年インタハイ優勝チーム


昭和36年インタハイ優勝チーム

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# by swpc | 2013-02-16 12:59 | Trackback | Comments(0)

水球19年(その2)

▼二度目の全国制覇
 済々黌は高知には弱い。高知でのインターハイは3回あったが、その内2回は緒戦で敗れた。27年度のチームも水垣・田代両君のコンビで必ずしもそう弱いチームではなかったのだけれども1回戦で鴨沂と対戦敗退した。33年の時も同様であった。高知の水は済々黌には合わないのかもしれない。
 昭和28年は水害の年であった。6月26日の白川の大水害は熊本全市の機能を全滅させた。学校は休校になるし、水球の練習どころではなかった。やっと7月末になってからの練習であったが名古屋でのインターハイでは軽く優勝した。
 予選の1・2回戦と準決勝は西区天神山の児玉プールで行なわれた。立派な施設を持った大プールではあったが水温の低いのには困った。以前私は名古屋に居たこともあったので町の大体の様子はわかっていたが、木曽川から引いた水だとかいうわけで、折からの冷雨とも重なって暖国九州の選手には非常に気の毒であった。
 プログラムによると最初済々黌は第1日日の9時から東京の学習院と対戦することになっていたので皆悠々と構えていたら、参加申込の学校の内東北の岩手高校とか東京の明治高校など二、三の学校が不参加となったために急遽監督会議を開き既定の組合せを改めることとなりその場で再抽選、済々黌は第1試合で鴨沂高校とぶつかるということになった。私もあわてたが選手たちも困った。前年度、高知で惨敗しているので果して勝てるかどうかわからなかった。しかし結果は前半2-2の接戦の後、田久保主将のバックシュートが見事にきまり貴重な一点を加えた。後半は0-0激戦の末結局3-2で辛勝した。後は優勝戦まで順当に勝ち進み、優勝戦でも山城に楽勝した。これが二度目の全国制覇であったが、今回は前回ほど皆が興奮することもなかった。やはり済々黌の水球部がそれだけ成長したことを示すものであった。
 旅館も決してよくはなかった。私の長い監督生活の中でも「さかさくらげ」のマークの入った宿にとまったのはこの時だけであった。優勝戦の日の朝食の卵がくさっていたりいやな事もあったけれども、結局は優勝出来たのだから文句もいえなかった。
 この2回目の優勝は田久保・井上両選手の力に負うところが多大であった。時には怠ける選手に鉄拳を加えてみたり、今なら問題になるような事もあったようであったが、真面目そのものの田久保主将であってみれば殴られても不平もいえず、かえってチームが強化して行った。
思うに、25年度の全国2位から26年の第1回優勝、さらに28年の第2回優勝、この2回の全国制覇を中心として済々黌水球部の基礎は一応確立したといえる。29年・30年と優勝は出来なかったけれども、確実に全国2位の座を占めた。「済々黌の水球」「水球の済々黌」として天下に名を成したのもこの5・6年間の好成績の結果であった。
この間にオリンピック水球監督としてメキシコに行った菅原君、同じくミュンンヘンに行った荒瀬(田久保)君、それにローマオリンピックに出場した宮村選手が生れた。又、済々費OBとしてはじめての国際試合第2回アジア大会に出場した古賀・田代の両選手、その他若くしてこの世を去った水球の天才飯田桂三君や渋谷・松本・田上・内田・石原・本田・河原など多数の名選手は皆この期間の人たちであった。これが済々黌水球史上第1期の黄金時代であった。(続く)


第2回全国制覇チーム(昭和28年)

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# by swpc | 2013-01-09 18:32 | Trackback | Comments(0)

水球19年(その1)

 随分久しぶりの更新です。
 先月30日(11.30)は平田忠彦先生の九回忌でした。それに合わせて更新するつもりでしたが遅れてしまいました。お詫びいたします。
 さて、平田先生が71歳の時、自叙伝「水と陸と」を出版されました。その中から、済々黌水球部の思い出に関する部分を、あらためて掲載し先生の遺徳をしのびたいと思います。
(柴田範房)




▼最初の全国制覇
 私が濟々黌に赴任したのは昭和25年の7月であった。学期途中での発令であったので、最初の一年間は授業だけで、担任もなくクラブの顧問もなかった。毎日割りとひまだったので校庭に出てはいろいろのクラブを見て廻った。その頃は野球がひどく強かった時代であったが、グラウンドにはいつも野球の後援会の人たちが沢山来ていて、必ずしも私には好感がもてなかった。プールにも何度か顔を出したが、水球のことは全然私にはわからなかったのでそれ程関心ももたなかった。そして、26年度の新学期を迎えると私は俄かに多忙になった。3年4組の担任と水球部の顧問とを仰せつかったからである。私にとって水球は全く未知の競技であったので一からの勉強であった。
 濟々黌の水球は戦後21年に始まり、5年の才月を経た今その実力は、既に全国1・2位を争うまでに成長していた。昭和25年度の選手の顔ぶれを見ても判るように、安浪・田代・古賀・大坪・高木の諸選手は泳力といい技術といい高校超一流の人たちばかりで、インターハイ決勝で慶応に敗れたのが不思議なくらいであった。その時の顧問は山田繁先生であったが、新学期を迎えると部の内部事情もあって先生が顧問就任を固辞しておうけにならないので、私にその役が廻って来たというわけであった。勿論佐伯君を中心とした3年の選手諸君の私への直接交渉も私の心を動かした。
 26年度のチームは佐伯卓三君を主将とし菅原・竜川・大島・水垣・田代・田久保の7選手を中心に河北・中村・井上の諸君で編成されていた。たしかに前年度はどの凄みはなかったかもしれないが、チームワークのよさは抜群であった。練習中はいろいろ怠けたり休んだりする人もいたが、いざとなると皆団結した。佐伯・菅原の名コンビがチームを引っぱっていった。コーチの安浪君の努力も大きかったしマネージャー坂田君の周到な心配りも大変な効果をあげていた。
 末弘杯で優勝・九州選手権で優勝、今度は天理での西部高校大会に出場することになった。8月16日、急行「阿蘇」で出発したが、車中で偶然私の大先輩松前重義先生にお会いしたために、先生から果物一籠の差入れをいただいたりして幸先のいい旅立ちであった。
 天理プールでの試合は皆楽勝で悠々西部高校で優勝した。宿舎は天理教の東肥教会とかいう所であったが、信者の方々の心からの奉仕で快適な毎日を送ることが出来た。その上宿料が廉価であったので遠征費が大分節約出来た。これが後で東京に行ってからひどく役に立つことになった。先輩の木村君が熊本から応援にかけつけてくれたのも私にはひどく有難かった。天理での試合終了後当時日本最強といわれた近水クラブとの練習試合もした。いよいよ東京での東西対抗のインターハイ決勝に出場だというわけで、関西水連の田口氏総監督の下に競泳男女・飛込・水球の各選手団を編成、21日大阪に向った。大阪ではスポーツマンホテルに一泊、練習は近くの扇町プールに行った。22日朝大阪発東京に向ったが、大阪駅にはわざわざ関西水連会長の高石さんが見送りにおいでになった。有難いことであった。
 東京での宿舎は本郷の太栄館であった。天理と違い毎日大変な御馳走で、夜食にも天ぷらそばなどが出て皆大よろこびであった。熊本を出発する時はまさか東京まで行こうとは考えてもいなかったので、服装なども不揃いでいかにも田舎チームらしいみすぼらしさであったが、今さらどうしようもなかった。遠征費も底をつき、電報で学校から金を取り寄せるといった状態であった。
 それでも神宮プールで行なわれた8月24日の対慶応の水球決勝戦では見事に優勝した。全員が一丸となって攻め且つ守った。そして濟々黌水球史上初の全国制覇を成しとげたのであった。
 その夜のことである。マネージャーの坂田君が私の部屋にやって来て「先生一寸のどがかわきます」というので、皆で坂下のおでん屋に行ってビールで乾杯した。弱小チームなどとあざけられ、それほど期待もされていなかったチームが、今、初の優勝をなしとげて、濟々黌の水球史上に燦として輝く偉勲をたてたのだから、選手たちのうれしい気持ちも私にはよくわかった。今までの練習の苦しさもふっとんで、ただよろこびに酔う選手たちであった。
 その後10月の22日から6日間、私の担任であった3の4の小山善一郎君の肝入りで、映研主催の科学映画の鑑賞会が大劇で行なわれたが、この時に濟々黌の水球全国制覇のニュース映画も同時に上映され、大変な好評を博したものであった。キーパーの佐伯君(現セキスイハウス九州本部長・同取締役)をはじめ全選手の活躍が手にとるように画面にあらわれた。私の姿も出た。「勝つことの大切さ」をしみじみと教えられたひと時であった。(続く)
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# by swpc | 2012-12-28 18:00 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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