運動会のパレード

 先週の日曜日(5/13)、済々黌の運動会があったことをテレビのニュースで知った。卒業以来、一度も見たことがない。正式には「恩賜記念済々黌大運動会」という。明治17年(1887年)に明治天皇から恩賜金が下賜されたことを記念して始まった運動会は今年で129回目を数えるという。私が在校中の運動会からすでに半世紀が経とうとしている。どんな運動会だったのか、あまり記憶に残っていないが、そんな中ではっきり憶えているのが部活紹介のパレードだ。パレードでは先輩たちが勝ちとったインターハイなどの優勝トロフィーや楯などを持って行進するのが自慢だった。必ず、他の部の部員たちから「それ何のトロフィー?」と尋ねられたものだが、まるで自分が勝ちとったかのように説明するのが誇らしかった。おそらくそれは伝統を受け継ぐ気概を再確認するセレモニーのような意味があったのかもしれない。
(柴田範房)

▼1963年5月の運動会にて
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# by swpc | 2012-05-17 19:16 | Trackback | Comments(0)

済々黌プール物語

 数々の栄光の歴史を刻んだ先代の済々黌プールが竣工したのは昭和7年(1932年)9月のことである。学校創立50周年記念事業の一つとして建設されたもので、長さ25m、幅13m、深さ1.3~3m、6コースという規格、付帯設備として高さ3mの鉄骨造り飛込み台、木製のスプリングボード1個、木造の選手席および脱衣場、シャワー2個、水洗式小便所1か所などという当時としては県下随一の設備を誇るプールであった。済々黌に水球部が発足するのは戦後、昭和21年のことなので、昭和7年9月16日に行なわれた竣工式では小堀流踏水術の猿木師範を始めとする練達たちによる游ぎ初めが行われた記録が残っている。
 このプールができた時代背景を振り返ってみると、前年、昭和6年9月には満州事変が勃発。11月には熊本で陸軍大演習が行われ、その折、済々黌は昭和天皇の行幸を仰いでいる。またプールができる1ヶ月ほど前にはロサンゼルス・オリンピックが行われ、日本水球チームが初参加を果たしている。この大会の水球はアメリカ、ハンガリー、ドイツ、ブラジルそして日本の5ヶ国が参加し、アメリカ、ハンガリー、ドイツの三ヵ国と対戦した日本は1点も取れず大敗した。まだ日本水球の草創期であった。
 以来50年にわたり、数多くの名選手を輩出し、日本水球界の「人材の宝庫」ともよばれた済々黌プールは昭和57年(1982年)、50年にわたる歴史的役割を終えた。


昭和7年9月竣工当時の済々黌プール


昭和58年、輝かしい歴史を引き継いだ新プール

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# by swpc | 2012-04-19 15:55 | Trackback | Comments(0)

オリンピックの華 - ミュンヘン大会(1972) -

▽荒瀬徹
(監督)菊池市出田出身。濟々黌、日大卒。海上自衛隊東京業務隊三佐(旧姓田久保)、36歳
▽桑山博克
(主将)熊本市千葉城町出身。濟々黌、日大卒。全日空勤務、30歳
▽木村隆
(選手)熊本市保田窪本町出身。濟々黌、日大卒。22歳

 水球に肥後っ子トリオ三人が出場する。監督の荒瀬、選手の桑山(主将)木村。いずれも濟々黌-日大と水球の名門校を出た俊英。過去、濟々黌-日大が送ったオリンピック選手は、ローマ大会で宮村元信、柴田徹、藤本重信、東京大会で藤本重信、メキシコ大会で菅原平(監督)、米原邦夫、坂本征也、桑山博克。実に延べ11人にも上る。日本水球界に輝かしい伝統を築く。

 監督荒瀬は自衛官。昔の位で言えば少佐である。8年間体育教官を務め、この4月から東京教育大で研修、将来は自衛隊の体育を背負って立つ男と期待されている。「先輩の菅原さんが、それまでオリンピック0勝から、メキシコで一気に3勝、12位に入ったので、私はそれを上回る8-10位をネラウ」と言う。昨年の第6回アジア大会後、全日本チームを菅原から引き継いだ荒瀬には自信がみなぎっている。「菅原は理論タイプ、荒瀬はファイトマン。はだ合いは違うが、全日本の監督としてはどちらも一流。ただ菅原は東京で徹底的に仕込まれた選手をそのままメキシコで使っておればよかったが、今回の選手の中にはまだ未熟な者が多い。そこを荒瀬がどう鍛え、どう使うか興味深い」―恩師の平田忠彦県水協理事長は二人を比較する。
 腰から逆三角形に盛り上がった分厚い胸、五分刈りの髪。物腰は柔らかいが「なかなか練習は厳しい」と選手の荒瀬評だ。26年のインターハイで先輩の菅原らとともに、濟々黌水球チームを初めて全国制覇に導き、さらに28年のインターハイでも強烈なシュートを決め二度目の優勝をもたらした荒瀬。日大主将を務め、アジア大会、ユニバーシアードと華やかな競技歴を誇る。昨年まで日大桜泳会のメンバーとして現役生括は20年。チームを預かるのは初めてでやや不安は残るが、「荒瀬なら―」と水球関係者は信頼しきっている。

 この荒瀬を助けるのが桑山だ。メキシコに続いてのオリンピック出場。最年長で今回は主将を命ぜられた。荒瀬とのイキもピッタリ。「水球は一度プールに入ったら試合が終わるまで上がれない。一人の選手の調子いかんがチーム全体を左右する。水球がよりチームプレーを求められるのもそのため。チームプレーこそ最大の攻撃であり防御である」―主将らしくチーム全体を見回す余裕がうかがえる。
 若いころのように、アシカを思わせる出足のいい泳ぎはやや影を潜めたが、すぐれたテクニックと駆け引きには、みがきがかかった。荒瀬監督も「メキシコより平均身長が上回り、選手が大型化したものの外国勢に比べたらまだ20センチ以上も開きがある。体力は比較にならないが、桑山の円熟した技術は大いに発揮してもらわねば」と期待する。二度のオリンピックのほかジャカルタ、バンコクの両アジア大会、ブラジル、ブダペスト、東京のユニバーシアード、メキシコ・プレ五輪と国際試合も豊富。

 木村も濟々黌時代、主将としてインターハイ優勝を経験しているが、日大に進んでからは不思議と海外試合のチャンスがなかった。今春日大を卒業、BSタイヤ大分に就職が決まったが「大分では水球は出来ない」とあっさり就職をけり、ミュンヘン代表を目指して、日大合宿入りした。
 六月に盲腸炎を起こし、7月末の選考会では大きなミスが続出した。このため選考委員会では木村一人を巡って論議が交わされた。しかも海外遠征の経験もない。委員の採決では4-4となったが、結局、荒瀬監督の判断で木村に決定したという。やはり“若い”ということがキメ手になったようだ。175センチ、68キロ上背のわりには体重がない。メンバーでも一番軽量だ。性格的にもやや弱い。このため荒瀬監督もビシビシと鍛え、グンと力強さを増している。
(昭和47年8月20日熊本日日新聞)


平田先生を囲んだミュンヘン五輪出場の熊本県出身選手
後列左から荒瀬徹水球監督と木村隆、桑山博克(右上枠内)
前列左から青木まゆみ、松村鈴子、合志えい子の各選手

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# by swpc | 2012-03-29 15:31 | Trackback | Comments(0)

オリンピックの華 - メキシコ大会(1968) -

 菅原平(日本水球チーム・コーチ)
 菅原さんは熊本市大江小から濟々黌へ進み、31年日大卒。濟々黌2年のときインターハイに初優勝、“水球濟々黌”の基礎をつくった。日大時代も2年で関東リーグ初優勝、3年で全日本初優勝と日大躍進の中心メンバーとして活躍した。
 35年ごろから日大水球チームのコーチをしているが、今回の代表選手9人のうち5人が“教え子”である。とくに米原、桑山、坂本の三選手は濟々黌、日大を通じての後輩でもある。いま神宮プールで仕上げの合宿練習をしているが、桑山ら三選手がケガをして練習効果が上がらず頭をかかえている。しかし「メキシコではどうしても10位以内を確保しなければならない。これができないと次のミュンヘン大会には水球参加が危うくなる。メキシコ大会に水球の存亡がかかっている」とファイトを燃やして、選手たちにハッパをかけている。
 本職は東洋交通大森営業所の所長さん。「仕事の方も気にかかるのですが、オリンピックがすむまではおあずけです」と苦笑する。根っからの“水球の虫”だ。
 一昨年、大分国体のとき一日だけ帰省したが、それいらい故郷にはごぶさた続き。「メキシコへ行く前に一度帰りたいのですが、選手たちも故郷には帰さないので私も帰るわけにはいきません。母親が寝込んでいるというし、親不孝のしっぱなしです」と嘆いていた。
 薫夫人と一男一女の四人暮らし。熊本市大江町渡鹿出身、現住所=川崎市。

 桑山博克選手(26)
 攻撃のカナメの米原選手に対し桑山選手は守りのカナメ。今回の代表チームの中心メンバーの一人である。練習量の豊かさを物語る真っ黒なハダが水にぬれてつややかに光る。ボールを追う出足のいい泳ぎはアシカを思わせる。そのダッシュのよさは定評のあるところ。
 菅原監督は「バックの選手だが、泳力があり出足もいいので攻撃にも回れる。泳ぎのないチームには威力を発揮するだろう」と期待を寄せている。しかし守備に関しては「ヨーロッパ勢に比べると日本選手はからだが小さい。この点がいちばん不利だ。このため日本人相手と同様な守備ではダメ、すぐれた技術とかけひきが必要」と指摘する。
 同選手も「からだの問題はいってもしようがない。外国勢を押えるにはまずひとかき先に出ることだ。出足を生かしてセリ合ってみたい。ひとかき早ければ守りを攻撃に変えるチャンスも生まれる」精かんな顔にファイトをみなぎらせる。ブラジル、ハンガリーの両ユニバーシアード、バンコクのアジア大会と国際試合の経験は豊富。同選手のことばはこのような裏付けがあってのことだ。
 濟々黌時代にインターハイに二回優勝、日大時代も全日本、インカレに各一回優勝とはなやかな水球歴を持つ。日大4年のときは同大水球部のキャプテンも勤めた。それだけに「水球は一度プールに入ったら試合が終わるまでは上がれない。一人が調子をくずせばチーム全体がくずれる。チームプレーに徹することがなによりも大切」とバックの選手だけにチーム全体を見回す余裕がある。170センチ、71キロ。
 ◇くわやま・ひろかつ 熊本市千葉城町出身、全日空本社ヘリ営業勤務。現住所=川崎市。

 米原邦夫選手(27)
 メキシコオリンピックの水球日本代表チームには三人の肥後っ子選手がいる。いずれも濟々黌、日大と水球の名門校ではぐくまれた選手だ。米原選手はこのトリオの一番手。後輩をしった(叱咤)激励しながら神宮プールで仕上げのチームづくりに精出している。
 たくましいからだ。胸囲103センチの広く厚い胸、その胸毛と冷静なプレーが彼のトレードマークだ。
 フォワードだが、シューターではない。攻撃の“パスのカナメ”である。日本チームが誇る竹内、桑原らのシューターを生かすのも殺すのも彼のパスワークにかかっている。「自分をパスマシーンと思っている。練習でも自分のパスをいかに生かすかに専念している。無理なパスを出さぬことが第一。あとは冷静さを失わぬことだ」とチームにおける自らの役割りを心に刻みつけている。
 水連派遣役員としてチームとともにメキシコに行く監督格の菅原平氏(34)=濟々黌、日大出=は「どの選手にどんなタイミングでパスを送るか米原の動きが試合を左右する。ともかくも米原にボールをキープしてもらわねばならない。水球は反則の多い競技だが、そのさい与えられるフリースローをいかに利用するかが攻撃のポイントになる。この点反則を多くもらうのも米原の役目のひとつ」と日大時代から現在まで手塩にかけた後輩に期待を寄せている。
 日大時代三回全日本で優勝。濟々黌では水球部のキャプテンだった。38年にはブラジルのユニバーシアード出場。39年日大卒後、一年間事情あって水球から離れたが、持ち前の“負けん気”で40年にカムバック、同年ハンガリーのユニバーシアードに出場するなど国際試合の経験も豊富である。170センチ、67キ㌔
 ◇よねはら・くにお 下益城都城南町千町出身。旭化成勤務。現住所=東京都杉並区。

 坂本征也選手(23)
「私のからだではヨーロッパ勢には通じない。しかし泳ぎでは負けません」と開口一番、鋭い目を光らせた。ことばのように水球選手としては小柄(168センチ、63キロ)である。しかしそれを補ってあまりある泳力がある。
 水球の試合時間は4クォーター計20分だが、反則のさいの時間を加えると試合終了まで選手たちは小一時間も泳ぎ続けなければならない。水球は数多い競技のうちでも五本の指に入るほど体力を要する競技だ。
 同選手は42年日大を出て社会人となったあとも人一倍の練習によって泳力、体力を維持してきた。この努力がメキシコへの道を開いた。
 米原、桑山の両先輩が攻撃、守備のカナメとすれば坂本選手はオールラウンドプレーヤー。プールの中を持ち前の泳力を生かして縦横に動き回る。菅原監督は「貴重な控えの選手です。対メキシコ、キューバ、ブラジルなど確実に勝たねばならぬ試合にどうしても必要な選手」とその泳ぎに期待を寄せている。
 坂本選手自身も「私は日本選手としても小さい方だ。だから泳ぎを生かすほかない。ひたすらに泳ぎ、動き回るだけ」と泳ぎに徹底している。
 濟々黌時代にインターハイで一回優勝、日大3年のときインカレ優勝。4年のとき水球部キャプテン。同年バンコクのアジア大会で優勝の感激も味わっている。
 ◇さかもと・せいや 熊本市出水町国府出身。三報社印刷勤務。現住所=東京都目黒区。
(昭和43年9月以上熊本日日新聞)


前列左から桑山博克、島田輝昭、入江昭雄
後列左から坂本和義、宮本孝典、米原邦夫、村山憲三
上の顔写真は左から菅原平、坂本征也の皆さん。

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# by swpc | 2012-03-14 20:13 | Trackback | Comments(0)

オリンピックの華 - 東京大会(1964) -

◇藤本重信選手 (24)
 熊大付属小-熊大付属中-濟々黌-日大-BSタイヤ
“右だ” “それ前へ出ろ” “当たらんか” 矢賀正雄コーチ(竜南中教諭)の厳しい指示がプールサイドからとぶ。部員たちはこれに忠実に右へ左へとボールを追って水しぶきをあげる。
 高校水球界の名門にふさわしいハード・トレーニングが毎日、日の暮れるまで続けられる。この厳しい練習から持ち前のファイトが養われるのだ。

d0251172_16355840.jpg 水球はスポーツの中でもとくにスタミナを要する競技。ローマ大会でもソ連とハンガリーが水中で流血騒ぎまで起こしたように、この競技にはトラブルもつきものだ。それだけになにものにも負けぬファイトが要求される。「濟々黌の水球」といわれるまでになったのも、先輩たちに“ファイト”プラス“チーム・ワーク”があったからだ。
 国際試合を経験した日本選手は、必ずといっていいほど、体の大きい外国選手におびえる。その中で藤本だけはいっこうに気にもしていない。「水中でけられたらけり返しますよ。それだけハラがすわっていないと絶対勝ちっこありません」と平気な顔。このファイトも濟々黌時代に養われたと同選手も述懐するように、同校を巣立っていった選手にはファイターが多い。矢賀コーチも「その藤本が濟々黌時代はどちらかといえばおとなしい方だったのだから、およそウチのチーム・カラーもわかるでしょう」と笑う。
 “人には負けぬ闘志” これは濟々黌の校風であり、伝統でもある。同校の有名な三綱領の中にも「重廉恥振元気」の一項が光っている。
 戦前は剣道で通算11回の全国制覇をなしとげ、濟々黌の名は全国にとどろいた。戦後も水球をはじめ、ハンドボール、陸上などに全国優勝の豊富な経験を持つ同校は県下随一のスポーツ名門校といえる。

 国体などの全国大会で実力がありながらみすみす予選落ちする学校が多いなかで、濟々黌の選手は逆に実力以上の成績をおさめてくることもしばしばだ。イエローラインに象徴される濟々黌魂-母校への誇りが、自信となって勝負強さを発揮するのだろう。水球部はそのもっとも典型だ。

 濟々黌水球部は38年、その輝かしい実績が認められて熊日社会賞をうけた。部創立は終戦直後の21年夏。その翌シーズンには全国大会の準決勝まで進出、その3年後には初の全国制覇をなしとげ、いらい国体優勝も含め、5回の全国制覇を経験してきた。また末弘杯大会(西日本高校選手権)でも24年から今日まで連続16回も優勝している。したがって末弘杯では“必ず勝つ”という自信から、実力的には劣勢の試合でも最後に逆転して勝ったというケースが多い。同校の場合、実力にプラス・アルファがある。「それが“伝統″だ」といわれるのもうなずけることだ。そしてさきのローマ大会には宮村元信、藤本重信、柴田徹の三選手が水球代表として参加し、同校水球部の歴史に輝かしい1ページを刻んだ。
 しかしチームの発展のため、陰になり日なたとなって努力してきた平田忠彦部長(50)も忘れることのできない人。平田教諭は初の全国制覇当時からの部長で、「九州に濟々黌あり」と全国に同黌の水球を高めた最大の功労者だ。技術面の指導はもう10年間もコーチをつとめるOBの矢賀氏にすっかりまかせっきり。プールサイドに控え目に立って部員の練習をじっと見守る姿は同黌水球部の父といわれる存在にふさわしい。

 平田部長は大声をあげない。絶対に怒らない。常に平静だ。水中からあがってくる部員一人一人を、激励するような調子でアドバイスする。柔和な目をさらに細めて話しかける。実の父親のように部員一人一人の面倒もよくみ、親身になって世話をする。それだけに部員の信望も絶大だ。同水球部の強さの一つといわれるチームワークも同教諭を中心とした部員たちの「和」から生まれたものだ。
 夏休みになると同黌プールには必ず卒業生たちが駆けつけて、平田部長と談笑し、後輩たちを鍛えあげる。なかには熊本駅からそのまま直行してくるOB達もいる。彼らは口をそろえて「平田部長の顔をみるまでは帰ったような気がしない」という。藤本にしても同教諭が上京した際はどんなに忙しくても時間をさいて駆けつける。
 さきほど水球の関東大学リーグ戦で生まれた「高木・飯田杯」も若くしてなくなった濟々黌出身の両氏を偲ぶ先輩・後輩たちの友情の産物だった。こうしたタテ、ヨコの堅いキズナこそ濟々黌の伝統的なバックボーンなのだ。

 こうしたスポーツの名門・濟々黌も、野球の全国制覇を頂点に最近やや低迷気味だ。水球は例外としても、、野球部などはナインをそろえるのに苦労しているという。ここにも試験地獄に委縮した現在の高校制度の矛盾がうかがえる。
 しかし濟々黌に水球部のあるかぎり、そして藤本選手のオリンピック二度日の出場をきっかけに、同高校の輝かしい伝統は再び新しい前進と飛躍を続けることだろう。
(昭和39年9月熊本日日新聞)

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# by swpc | 2012-03-05 16:49 | Trackback | Comments(2)

オリンピックの華 - ローマ大会(1960) -

 済々黌水球部出身のオリンピアンたちを、大会当時の新聞記事からご紹介していきたい。第1回は1960年に行われたローマオリンピックに出場した三選手。

▽宮村元信(LF)
 昭和11年12月1日生まれ23歳。身長1㍍72、体重65キロ、31年日大香港遠征メンバー、32年パリ国際学生大会、33年第3回アジア大会出場。濟々黌30年率。日大出。新光商事KK。菊池市戸崎字赤星出身。
▽藤本重信(RF)
 昭和14年9月3日生まれ20歳。身長1㍍75、体重68キロ。濟々黌33年卒。日大政経学部3年。熊本市辛島町出身。
▽柴田徹(LB)
 昭和15年10月30日生まれ19歳。身長1㍍82、体重78キロ。濟々黌34年卒。日大法学部2年。熊本市川尻町田町出身。
◇水球11人の選手のなかに三人の熊本出身が選ばれた。宮村、藤本、柴田の三選手は水球でトップレベルを堅持している濟々黌出身の三羽烏。水球は戦後はじめてのオリンピック参加だ。それに絶対の体力が要求される種目だけに大会での成績となると本部もはっきりした予想はたてられないようす。
◇菊池中学のころは野球をやっていたという宮村選手は濟々黌に入って水球に打ちこんだ。28年、2年生のときインターハイで全国制覇、日大に進んでは日本選手権、パリ国際学生大会の出場など大試合の経験も豊富。33年の第3回アジア大会でも力をフルに発揮して優勝した。こんども日本チームの主力フォワードとして抜きんでたプレーをみせるだろう。“職場の都合もあるし、オリンピックを最後に第一線から身をひくつもりですが、後輩のめんどうはみたいと思っている。藤本、柴田両君は若いし次の東京大会でも大いに期待できますよ”― こういう宮村君は最後のヒノキ舞台をいかに活躍するか。
◇同じくフォワードとして宮村君とうまいコンビネーション攻撃をみせる藤本君も濟々黌の2年からレギュラーとして活躍、32年の静岡国体で優勝の経験をもっている。日本チームでただ一人の左利きなのが注目され、左右をうまくつかって相手のバックス守備を乱すのに大きを威力をもっている。“ローマでひと泳ぎしてきます”とまるで隣り村へでも行くような気軽さは、国際ゲーム初参加とはいえのびのびしたプレーができそう。
◇“まったく思いがけなかった。選ばれて面くらいました”と柴田君。濟々黌の1、2年はゴールキーパー、32年に藤本君らといっしょに国体優勝を味わい、3年からバックスに回った。むろん海外遠征ははじめて。“両先輩がいるので心強い。勉強のつもりで頑張ってきます”若さとファイト、そして日本チームきっての恵まれたスタミナは大柄な外人選手と対等にワタリ合えるだろうと期待される選手。“濟々黌のわれわれトリオが攻守の中心になってやってきますよ”三選手ともさかんな意気をみせていた。
 平田先生の手元にはローマに遠征した教え子たちから、さっそく三枚の絵はがきが届いている。「今日はイタリア、あすは南アフリカと試合が続きます。調子は上々バリバリやります」とかいてあるのが最年長の宮村選手。
「イタリアに散々痛めつけられました。もっと泳ぎ込まなければダメですね。自信はあります。」 これは藤本選手。
「飛行機の旅は快適です。ただいま北極点を通過」としごくのんびりかまえているのは一ばん若い柴田選手だ。
 平田さんは昭和26年濟々黌水球部の部長になっていらい10年、この間40人あまりの国際級のプレーヤーを育てあげた。「オリンピック選手になった三人はこれまでの濟々黌出身者の中でも特に優秀な選手です。当然選ばれるべくして選ばれた選手でしょうね。それに三人三様の持ち味があります。宮村君は努力型、表面はおとなしいがすばらしいファイトの持ち主で、大学を出て3年にもなるのに現役以上に泳ぎまくります。藤本君は水球のために生まれて来たような男です。シュートは左も右もきく日本チームには貴重な存在です。柴田は1㍍80はあろうという大男、ファイトのある国際試合むきの選手です」ローマ大会の開幕が待ち遠しくてならないといった表情の平田さん。
 「宮村君は年令的にみてもこれが最後のチャンスです。だからもう悔いのをい試合をしてくれればそれでいい。藤本、柴田両君にはこれから日本の水球界を引っ張って行ってもらわなければならない。うんと各国の事情をみてこんごに役立ててほしいですね。
(昭和35年8月熊本日日新聞)



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# by swpc | 2012-02-25 19:24 | Trackback | Comments(0)

俊秀群像(3)

 静岡国体優勝の選手たちの中にも又すぐれた人材がいた。
 吉邑紀義君、国体初優勝チームの主将である。東京教育大卒後埼玉県に奉職、埼玉国体で川口高校を優勝させた。筆者の退任時に後任として濟々黌に招く。以来濟々黌の監督として活躍している。
 藤本重信君(別項)
 他に梅本秀一君、北岡祥靖君、桑山隆弘君がいる。梅本君は温厚な紳士、北岡君は一昨年帰熊、東京海上熊本店に勤務中、桑山君は日大でも水球選手として活躍した。日大卒後は製薬会社に勤務していた。有名な博克君の長兄。
 当時の二年生としては、米村彰芳君、柴田徹君がいる。米村君は先年帰熊、人吉市でゴルフ場の副支配人、奥様は九州女学院短大の教授で名ピアニスト。
 一年生としては、米原邦夫・坂本和義・宮川弘之・宮本孝典の諸君がいた。坂本君は久留米医大卒業後引つづき大学に残り、現在は病理学教室の講師。医学博士。宮本孝典君も東京で頑張っている。宮川君は法大の水球部の基礎を築いた人。熊本市在住。
 熊本国体の前後になると選手の層は一層厚みをまし多士済々。
 島田輝昭君、第三回インターハイ優勝時の主将、一ケ月の東京合宿も厳しかったであろうし、また地元熊本での国体も大変だったろうと思うが、ほんとによくやってくれた。現在広島県竹原市にあって中尾醸造に勤務中、頭脳明噺なサラリーマン。
 大村健治君、奥村省吾君も健在、奥村君は家業を継いで浴場を経営中。
 次の学年になると村山憲三君、入江昭雄君、桑山博克君(別項)小陳修臣君がいる。濟々黌がインターハイで二連勝した時の主力選手たちである。
 村山憲三君は濟々黌の多くの選手たちの中で最も体力的にすぐれていた選手で、その泳力の強さは無類であった。GKとして又バックスとして活躍した。日大卒後東京でサラリーマン生活を続けていたが昨年より神戸でスイミングクラブを指導中。
 入江君は中大卒業後簡易保険事業団に入っているが母校を思う念に燃え、余暇があれば母校にも顔を出す。ファイトマンである。小陳君も同様、会津若松の国体では大活躍をした選手である。
 当時の二年生には堀緑良(法大卒)坂本征也(別項)豊永修介(中大卒)松田康(法大卒)の諸君がいる。堀君は人も知る傑物。小事に拘泥せず、わが道をゆく人、先年熊本に帰り会社を経営、豪酒家。
 豊永君は久留米にあって会社を経営、いつも熊本にやって来て後輩の指導をしている。OB選手をひきいて前後二回関西選手権に遠征した。
 松田君も千葉にいるがOB会にはいつもかけつけてくる、好紳士である。
 これ以後になると、深迫章、柴田範房、下村佑次郎、平田和彦、福永冠治、藤本勇夫と続き、更に藤本重彦、徳永慶八、村上和夫、河田正道、中島清志、西本賢一、野中史之の諸君となるわけであるが、柴田君は防府BS、下村君は熊本で自営、愚息和彦は韓国・ハワイに遠征、現在は福岡積和、福永君は和歌山新宮商業の水球監督。藤本君は人吉市で自営。藤本重彦君はメキシコのプレオリンピックや東京ユニバーシアードに出場、現在東京材料に勤務中。徳永君は中大水球部の中興の主、在東京。村上君は熊本ヤクルト、往年のファイトいまだおとろえず。河田、西本、野中の諸君も健在。
 これ以後にもインターハイ、国体と二度の優勝があり、それぞれ一騎当千のつわものたちがいるわけであるが、まだまだ春秋に富む若い人たちなので、今後の一層の活躍を記念しながら一応俊秀群像篇を終わることとする。
(次回の「オリンピックの華」へ続く)

昭和32年優勝チーム

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# by swpc | 2012-02-14 15:42 | Trackback | Comments(0)

俊秀群像(2)

▼勝者の面影
 日本高校五回、国体二回の優勝者の中から思い出の人々をぬき出してみよう。
 佐伯卓三君、第一回インターハイ優勝チームの主将、ゴールキーパー。旺盛なファイトと強い意志と明晰な頭脳の持ち主、シーズン中は、夜の七時八時まで水球の練習をしても家に帰ってからは又猛烈に夜明けまで勉強した。当時の進適では済々黌一の最高点をマークした人でもある。明朗、快達で頼りになる人物、神戸商大卒現在セキスイハウス取締役兼九州営業部長。
 菅原平君(別項)
 大島淳之助君、在校中はバックスとして活躍した。日大進学後も選手や総務として日大水球部の基礎を築いた。現在小倉のNCRに勤務中。
 竜川武弘君、済々黌から熊大に進学、熊大二年の時から済々黌のコーチとなり二十八年の第二回目のインターハイ優勝をなしとげた。済々黌時代は名フォワード、菅原君とのコンビで優勝の原動力となった。現在鹿本地方事務所の指導主事。
 坂田定苗君、第一回優勝チームの名マネージャー。三十年の済々黌の水球史の中でも彼に勝るマネージャーはいない。万事に気がつくし、世話はとどくし、初優勝の陰には彼のかくれた苦心がものを言っている。現在西鉄グランドホテルの旅客課長。
 河北文雄君、熊本産交勤務、同じく第一回優勝チームのメンバー、時折り母校をたずねては後輩を激励している。
 田代晃一君、二年生として水垣憲二君 (在甲府市)と共にチームに加わり健闘した、後早大に入学、アジア大会候補となったが病のため辞退、現在日本航空に勤務中。
 田久保徹君(別項)
 井上融君、第二回インターハイ優勝時の立役者、攻守に美技をみせた。日大卒、現在前橋SSのヘッドコーチ。
 前田隆啓君、第二回優勝チームにおいて、井上君と共に守備の要として活躍、現在熊本にあって自営。
 宮村元信君(別項)
 澁谷竜志君、第二回優勝チームのゴールキーパー。済々黌在学中ずっとGKとして活躍した。東京水産大卒、現在東京にあって自営、後輩を思う念厚く、済泳会の世話役。
 故飯田桂三君、若くしてこの世を去ったが全く水球のために生まれて来たような人で水球の天才、済々黌在学中も、日大でも、又日大監督としても常に先頭に立って活躍した。パリのユニバーシアード大会に出場、当然ローマ五輪にも参加の予定であったが、不幸病を得て夭折した。高木・飯田杯としてその名を残している。君がもし、今に生存するならば、日本の水球界も一段の進歩をとげていたろうとさえ思われるくらいで、惜しい人物であった。
 田上新一郎君、済々黌在校中、水球選手として活躍、現在日動火災海上の熊本支社長、温厚を紳士。
 松本巍君(旧姓福村)宮村・澁谷君と同様、日本高校をはじめ、第一回国体参加の天理大会に出場した。現在は建築士として自営、済泳会の名会計。余暇があればプールで後輩の世話をしている。
 内田啓一君、優勝した名古屋インターハイに一年生として参加、日大歯科入学後も水球をやめず日大主将、鋭い泳ぎと独得のシュートは定評があった。医学博士、西武診療所勤務、東京済泳会の幹事。
 なお同じ頃、女性選手としてインターハイに出場した人に福田富貴子(現姓津守)背泳、山本政子(現姓三井所)乎泳の二人がいる。水球オンリーの済々黌にあって自己の泳ぎを生かす事は容易ではなかったと思うが、それを立派になしとげた人たちである。勿論水球の裏方さんとしても活躍した。
 他に河原武夫君(日本航空)本田忠孝君(墨水産業福岡)加来敏祐君、槌田征治君(航空自衛隊土浦)などもいた。本田君は済々黌で主将、日大でも主将をつとめた。槌田君は防衛大卒、現在航空自衛隊幹部として活躍中。
 石原節生君、近来稀なファイトマンで泳ぎも強く、彼がそのまま在学していたら三十一年のインターハイ・国体は絶対に優勝していたろうと言われる人である。残念ながら勉学半ばにしてブラジルに渡り現在はブラジルで自営、母校を思う念が強く、たえずたよりをよこしては後輩を励ます。一層の成功を祈りたい。
(続く)


昭和28年優勝チーム

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# by swpc | 2012-02-13 19:46 | Trackback | Comments(0)

俊秀群像

 昭和25年(1950)から20年の永きにわたり、済々黌水球部の部長として栄光の時代を築かれた平田忠彦先生が、昭和53年に「日本高等学校 水球三十年史」を出版された。この本が出版されてから既に33年の月日が流れ、平田先生ご本人を始め、多くの先輩方が鬼籍に入られた。
 この本の一部をご紹介しながら偉大な先輩方を偲びたい。
(柴田範房)

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「済々たる多士、文王以て寧し」(詩経・大雅篇)これが済々黌の黌名の出典である。
 明治十二年に創立された済々黌は近く百周年を迎えようとしているが、その間輩出した人材は枚挙にいとまがないほどである。頂度それと同じように、終戦直後に始まった済々黌水球部の今日までの三十二年間の歴史をふり返ってみると、全く文字通り、「済々たる多士」を輩出している。オリンピック出場選手七名(延べ九名)オリンピック水球監督二名、その他アジア大会出場選手十一名、ユニバーシアード出場選手十七名、海外に遠征した選手三十名、まことに驚くべき数であって、一つのクラブからこのように多数の名選手を送り出した学校は日本中にもあまり例がないのではなかろうか。
 今、これらの日本の水球界を背負って活躍した多くの名選手や、思い出の中に生きるあの人この人をぬき出して、その面影を偲ぶこととする。

草創期の人々
 先ず第一に挙げなければならないのは古荘・飯田の両氏であろう。古荘次平氏は御存知の通り日本の水球界の草分け、ベルリン大会にキーパーとして出場した名選手であり、飯田寿平氏も早大在学中は水球チームの要として活躍した人である。両氏共に済々黌の出身ではないけれども、済々黌水球部の恩人である。終戦直後の昭和二十一年、食もなく家もなく、みじめな世相の中でとかく卑屈になり勝ちを若人たちを集めて、旧五高プールで水球の手ほどきを試みたこの両氏の功績は誠に大なるものがあると思う。
 これが契機となって、昭和二十一年の秋には早くも済々黌と熊本高校にそれぞれ水球チームが誕生し、翌昭和二十二年八月に兵庫県の宝塚プールに於て行なわれた第十五回全国中学選手権大会には両チーム共に出場、思いがけなくも済々黌チームは決勝戦に進出、当時強豪を誇った天王寺中学に5-3をもって惜しくも敗れはしたものの、二位を確保出来たことが、その後の済々黌の水球部の発展にどれほど大きなプラスを与えたかは言うまでもない事であった。爾来、今日まで古荘・飯田の両氏には引きつづき指導助言をいただいているが、全く有難いことである。
 初代水球部長の吉田長善氏も忘れてはならない人であろう。早大の史学科卒業後、母校済々黌に勤め社会科の担当、有名な熊本の相撲の司家の当主でもあって、公私ともに多忙であったが、水球部の部長としても良く選手たちの世話をし、遠征の時などは専ら栄養補給の面で奔走、選手たちを喜ばせた。小堀流出身。部育成の功績は大きい。
 さて、済々黌水球部のOB選手たちとなると、皆が思い出の対象となるわけであるが、年代順にかいつまんで述べてみたい。
 木村晋君、昭和二十年四月江田島海軍兵学校の最後の生徒として入校、やがて敗戦で復員、済々黌に再入学したという経歴の人。宝塚プールにおける第十五回全国中学大会には松前健男氏(東海大教授)と共にコーチとして初の水球チームを率いて参加、以来今日まで大先輩として後輩の世話をしている。熊本でも古い電気商の当主。GKさんとして親しまれている。
 矢賀正雄君、日本の水球関係者でその名前を知らをい人はまずあるまい。昭和三十年以降ずっと済々黌水球部の指導者として活躍、度々優勝をもたらした。多くの試合をみ、熱心に研究し、実地に応用して日本の水球のレベルアップを願うまじめな努力家である。笛も正確でルールに精通し、九州では最も信頼出来るレフェリーでもある。済々黌OB会、済泳会を組織し、会員相互の連絡、後輩の指導、会報の発行など精力的に活躍している。立命館大卒で本職は西山中学の先生、常に謙虚で恬淡。まだ四十代の若さなので、今後の活躍を期待する。
 矢島大君、在校中は、創部まもなくの水球部の主将としてチームづくりに活躍、同時に秀才の矢島としても有名、済々黌卒業時には成績優秀のゆえをもって恩賜記念賞を受賞している。一橋大卒業後、三井銀行に勤務、目下済泳会東京支部長としてOB会のまとめ役。
 家人逸郎君、済々黌・早大と一貫して水球選手として活躍。後輩の面倒をよくみ、いろいろ指導助言を与える。母校済々黌を愛する点においては人後におちない。理論家であると共にロマンチストでもある。浮世の辛酸を知りつくした実業家、今後の大成を期待する。
 他に清田信一君、甲斐二郎君、田代一生君など在熊のOB諸子がいる。それぞれ今もなお本務のかたわら水泳への情熱を傾け、若手選手の育成に努めている。
 異色のOBの一人に三浦八水君がいる。県農協の中央連合会長、既に県議の経験もあり、やがて国政に参与する日も来るだろう、自民党の若手ホープ、山鹿市水泳協会長。
 昭和も二十五、六年となると水球部の基礎も固まり、実力的にも優勝をねらえる状態となり、名選手が陸続として生まれ出た。
 藤田恒夫君、済々黌・早大を通じて水球選手として活躍、済々黌時代には主将、現在新日本ダンボールに勤務、矢島・家人の諸君とともに東京済泳会の中心人物。
 遠山徳一君、阿蘇内牧の温泉旅館ホテル角万を経営、ホテル内に温水プールを設けて、水泳への情熱をみせている。
 津田修(旧姓佐野)・藤本武士の両君も健在、津田君はハンドボールの指導者として藤本君は剣道でそれぞれ名をなしている。
 安浪渡君、済々黌から熊大工学部に進学。大学一年の時、済々黌コーチの大任を負い、美事第一回目の全国制覇の偉業をなしとげた功績は大きい。真面目なエンジニア、広島の三菱重工に勤務中、在校中は主将、美しい泳ぎで国体出場の経歴も持つ。
 古賀伸一郎君、済々黌・早大と一貫してGKとして活躍、GKとしては日本一の定評があった。第二回アジア大会に参加、早大卒業後は共同通信に入社、現在スポーツ記者として活躍中。
 田代二生君、古賀君同様早大卒、アジア大会にも参加した、早大水球部の監督、ユニバーシアード日本チームの監督などをつとめた、明噺な頭脳と「かん」は有名。
 牧野耕治君、千葉大医学部卒、千葉県の茂原市で病院を開業、医学博士、済々黌在校中はずっとバックスとして活躍した。
 大坪藤哉・大学の兄弟選手も健在。
 故高木昌一君、中大卒業後わずか一年で交通事故のため死亡、中大水球部の基礎を築いたその功績は高く評価されている。昭和三十九年に高木・飯田杯を設けて大学水球リーグの勝者に授与することとなったが、若くして散った二人の天才選手の名はいつまでも残ってゆくだろう。
(続く)


昭和26年のチームメンバー

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# by swpc | 2012-01-27 13:36 | Trackback | Comments(0)

全日本代表メンバーに見る黄金時代

 昨年、村山憲三さんから日本水泳連盟の機関誌「水泳」の昭和37年(1962)から昭和39年(1964)までのバックナンバーを資料として送っていただいた。四半期ごとに発行されるこの機関誌の年度末号には、毎年その年度の優秀選手が発表される。このうちの昭和37年1月号には昭和36年度の優秀選手が掲載されているが、まさに黄金時代を象徴するようなメンバーリストとなっている。
(柴田範房)


全日本代表チームの末尾の※印が濟々黌OB


代表チームメンバーとして欧州遠征に旅立つOBを羽田空港に見送る(1963.8)

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# by swpc | 2012-01-14 15:32 | Trackback | Comments(0)

想い出の1枚 ~ 昭和36年8月 ~

 しばらく更新をズボラしてしまいました。これまで全国優勝した年度を中心にご紹介してきました。もちろんまだご紹介しきれていないエピソードもたくさんあるのですが、それは追々補足していくとして、これからは不運にも優勝には手が届かなかった年度のエピソードもご紹介していきたいと思います。当然のことながら、私が見たり聞いたりした話は限られていますので、皆様からのご投稿をお待ちしています。
 今回はとりあえず村山憲三さんからお送りいただいた写真の中の1枚をご紹介します。これは昭和36年8月、川崎の木月町にあった法政大学水泳部寮でのスナップです。インタハイを前に、ここを拠点に夏合宿をしましたが、これはある日の練習後のひと時だったと記憶しています。懐かしい諸先輩がたの顔を見ると、本当に可愛がっていただいた日々を想い出し涙が出る思いです。フレームアウトしている人が気になります。
(柴田範房)


左から宮川さん、藤本君、堀さん、私、入江さん、大村さん、坂本さん、小陳さん、村山さん

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# by swpc | 2011-12-16 11:01 | Trackback | Comments(0)

国体2度目そして最後の全国制覇!(続き)

 前回記事で、この昭和43年の国体優勝を濟々黌水球部の歴史の中でも特筆すべき勝利と書いたが、特筆すべきことはこれだけではなかった。実は部史上初めて、インタハイ全国大会に出場できなかったのである。つまり、九州地区予選で4位に終り、全国大会への出場権が与えられる3位以内に入れなかったのである。これは九州各県の高校の実力が急速に高まっていたこともあったが、濟々黌自体が実力を発揮できなかったことが大きい。これはある意味で、この年のチーム事情をよく表した出来事だった。私はこの年地元熊本に就職し、このチームの様子を春先からつぶさに見てきた。現役時代と変わらない体力を維持していた私に矢賀コーチから与えられた使命は、実戦練習でのエース西田へのマンマーク。前年のインタハイ優勝チームから3年生4人が抜け、春先こそチーム力が落ちていたが、シーズンが進むにつれ、徐々に力をつけて行った。ただ、このチームが前年と明らかに違っていたのは主将宮田と西田への依存度が高かったことだ。ということは二人の調子いかんがゲームを左右する。とりわけポイントゲッター西田は好不調の幅が大きく、チームの出来を左右した。しかし、私はまさかインタハイ全国大会の出場権を失うとは夢にも思っていなかった。
 九州大会から帰って来た彼らは明らかに目の色が変わっていた。東京合宿も行い、国体前の頃になると西田は私の手には負えなくなっていた。プールサイドで見ていた先輩の木村さんが「もうお前には西田は押さえられんなぁ」と言われたのをよく憶えている。私も多分高校生で西田を押さえられる選手はいないだろうと思った。上位入賞どころか優勝だってあり得る、と確信したのはその時である。
(柴田範房)


大洋デパートでの国体優勝祝賀会の模様

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# by swpc | 2011-11-24 17:02 | Trackback | Comments(0)

国体2度目そして最後の全国制覇!

 昭和43年(1968)の福井国体における優勝が、現時点では濟々黌水球部最後の全国制覇となっています。それまで国体では運に恵まれなかった済々黌の念願の二度目の国体制覇であることも合わせ、濟々黌水球部の歴史の中でも特筆すべき勝利の一つであることは間違いないと思います。この「最後の」という形容詞を外す日が来ることを願わずにはいられません。
 この大会の模様を平田忠彦先生著「日本高等学校水球三十年史」で振り返ってみました。この年の私の想い出は次回に述べたいと思います。
(柴田範房)


 第23回国体夏季大会は9月4日から7日まで福井運動公園水泳場(競泳)、福井市営三秀プールで行なわれた。国体が人口百万以下の県で実施されるのは今回がはじめてというわけで今後への一つのモデルケースといわれた大会であったが、「明るく、きよく、たくましく」というスローガンの通り、75万県民の一致団結した国体への協力はすばらしいものがあり大成功裏に大会は終了した。
 さて開会式は皇太子殿下をお迎えしての型通りのものであったが、明治百年というので選手宣誓の中にもそれがとりあげられて話題をよんだ。また県花水仙の裾模様の美しい和装のコンパニオンたちの福井駅での歓送迎も印象に残っている。
 水球には参加チーム20。かつてない数にのぼり、四日間の期間中での消化にやや無理を生ずるということで、次年度からは地域予選を行って16チームに限定することになったわけであるが、とにかく国体水球開始以来の最大参加数を記録した歴史的な大会であった。
 結果は熊本県が優勝したが決勝リーグの成績は次の通りであった。
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 濟々が会心のプレーで優勝候補筆頭の臼杵を破った。
 濟々は第1クォーター臼杵の荒いプレーからペナルティを拾って西田がまず1点。4分すぎには敷島からのパスで大分守備陣を右に振った西田が再び左から見事なシュートを決めた。第2クォーターは臼杵が泳力にものをいわせて攻めたて1点をかえしたが、濟々は第3クォーター2分すぎ浜田-敷島からのボールをエース西田がふり向きざまのあざやかなフローティングシュートを決め、さらに3分30秒、ペナルティーを加えて振り切った。インタハイ1位の臼杵は意外に元気がなく、ポイントゲッター西田をフルに生かした濟々のチームプレーに屈した。(長谷川)

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 濟々は臼杵に勝った安心感からか、この試合ではやや精彩を欠いた。エースの西田が徹底的にマークされたせいもあるが、点をとるとすぐに返され、つねにリードしながら結局は引き分けに持ち込まれてしまった。
 第2クォーター1分48秒、濟々は西田、浜田の連続シュートがゴールポストに当たってはね返り、相手GKがホッとしたすきに門司がすかさず押し込んで先行した。しかしその直後、新潟のすばやい反撃に正面を割られて1-1。さらに3分すぎ、門司の長いパスを受けた西田がクリーンシュートを決めたが、これも30秒後には返されて再びタイ。第4クォーターは柏崎ゴール前の混戦からダブルファウルをとられ、双方ペナルティーシュートを決めて3-3の引き分けに終わった。(長谷川)

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 濟々黌が前半積極的に攻めてリードを奪い、後半の長崎の追撃を振り切って待望の国体初優勝を果たした。
 第1クォーター1分11秒、濟々は西田のフリースローを敷島が受けて、ゴール左すみにシュートを決め1点先取。第2クォーターは動きの鈍くなった諫早陣に攻め入り、浜田-西田のリレーシュートで2点目をあげた。第3クォーターは、濟々が初めてセンターボールをとったが、諫早の早いつぶしで得点に結び付かず混戦。2分22秒西田がペナルティシュートを拾ったが、諫早はすぐペナルティを返した。
 第4クォーターは開始直後の22秒、諫早は林がペナルティシュートを決めて1点差に追いすがり、さらに激しく迫ったが、濟々も必死に動いてそのまま逃げ切った。この日の濟々黌は、前半のチームプレーで勝利を決めたが、81の反則が示すように後半は守る一方。攻めても得点にならなかったシュートが7つ。気力だけで勝ったような試合だった。(岩下)
(熊日紙)

 予選トーナメント
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(注)文中、「国体初優勝」とあるのは、昭和33年に水球が天皇杯得点種目となってからは初めての意。


平田先生を囲んで、前列左から敷島(3)、西田(3)、宮田(主将3)、谷口(3)
後列左から浜田(2)、松田(2)、神谷(2)、藤木(2)、門司(1)

■大会スナップ(各写真をクリックすると大きなサイズで見ることができます。)
 写真は上から順に
 ▼宿舎でのミーティング ▼予選トーナメント対城西高(東京)戦
 ▼予選トーナメント対茨木高(大阪)戦 ▼決勝リーグ対臼杵高(大分)に勝利
 ▼決勝リーグ対諫早商(長崎)戦 ▼ポイントゲッター西田
 ▼歓喜の平田先生のプール投げ込み ▼福井市民の熊本県応援団
 ▼優勝の表彰を受ける宮田主将 ▼閉会式で感涙にむせぶ選手たち

 

 

 

 

 

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# by swpc | 2011-11-16 16:44 | Trackback | Comments(0)

インタハイ5度目のタイトル(昭和42年)

 第35回インタハイ水泳は8月18日から21日まで福井市に於いて行なわれた。
 競泳は県営プール、水球は市営三秀プールであった。
 水球のリーグには臼杵・濟々黌・関西・川口の4校が残ったが、皆同程度のチームで実力に差がなく、同点引分け試合が多かったが、結局は濟々黌が優勝。五度目の全国制覇をなしとげた。結果は次の通りである。
 今年の濟々黌チームにはこれという傑出した選手はいなかったが、関西高校と2-2で引き分けたのが非常なプラスとなり、川口には4-3で辛勝、臼杵とは3-3で引き分けたが、勝点4で六年ぶりに優勝をとげる事が出来た。


※平田忠彦著「日本高等学校水球三十年史」より


平田先生を囲んで前列左から田代(3)、木村(3、主将)、園田(3)、木本(3)
後列左から谷口(2)、敷島(2)、宮田(2)、西田(2)、浜田(1)


【補記】
 平田先生の記述の中に「傑出した選手はいなかった…」とありますが、少し補足させていただくと、高校水球界はかつての濟々黌・鴨沂の二強時代から、新興チームの実力向上が目覚ましく、群雄割拠の時代に大きく変わりつつあった頃でした。済々黌の過去の優勝チームと比較して、この年のチーム力が劣っていたということは決してありません。私はこの年、大学4年でまだ現役のプレーヤーでしたが、就活のため8月には熊本に帰り、毎日彼らの実戦練習の相手をしていましたから、彼らの強さを肌で感じていたものです。結果的にこの年のインタハイ優勝に続き翌年には国体優勝も果たすわけですから、その強さは証明されています。
(柴田範房)

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# by swpc | 2011-11-08 00:10 | Trackback | Comments(0)

会津若松国体(昭和36年)の想い出(2)

▼いざ決戦へ・・・そして

 鶴ヶ城内の宿舎「西澤別館」を出て会場まで徒歩で行く。将棋の駒を手に余裕の表情の面々。いよいよインターハイ、国体の完全優勝を目指して決勝戦がスタート。楽にセンターボールを取り前半が始まった。前半で1点をリードした我々は大失敗さえ無ければこのまま行けると思い後半に臨んだ。試合展開は相手も天下の鴨泝高、そう簡単には点を取らせて貰えない。そんな中で急にレフェリーMr.Kの笛が…。普通ならオーディナリーファウルまたは反則にはならない程度の動作で桑山2回、村山2回の退水で4点を取られて逆転されてしまった。一方こちらは桑山が唇を切る反則を受けて、レフェリーにアピールしても受け入れられず続行。そのような状態が続き、観客席からもレフェリーへの罵声も飛び交ったと聞いた。プール内では攻めている最中にも関わらず、小陳は相手チームの選手を攻める方向とは反対方向へ追うなど皆が頭に血が上って冷静な試合に戻れないまま試合終了となり完全制覇の夢は消えてしまいました。
 終了後プールサイドへ上がった我々は怒りも頂点に達し桑山はレフェリーへ脱いだ帽子を投げ付けた後つかみ掛かる寸前まで行ったが、平田先生に後方から抱きつかれ止められた。その場は何とか収まったように記憶している。それからは、プールサイドへ座り込んでしまい動けないまま暫く時間が過ぎた。表彰式で2位の賞状を受け取った後、破って捨てようと言う気持ちになったが先生や学校に迷惑が掛けては申し訳ないので、せめてもの抵抗として表彰状を丸めて後ろ手に持ち顔を上げる気力は無かった。
 その後、競技関係者の間からも疑問の声が上がり、会津若松からの帰りに平田先生、矢賀監督と共に当時丸ビルにあった日本水泳連盟に立ち寄り、事の次第を報告し、対処を求めた。それ以降、Mr.Kは審判員から外された。決勝の夜は、選手達は夫々に食事などに出掛けて大いに暴れまくった逸話も残っている。矢賀監督は部屋でテーブル一杯に空き瓶が並ぶほどビールを飲んで悔しさを抑えておられるように見えました。
 結果は永久に2位、我々は水球人生の中で最悪のタイミングであったと諦めなければならないようだ。また日本の水球界においてもこれ程の汚点を残した試合は他には無いし、今後も無い事を祈りたい。
 当時、学校終了後の5時間近くの練習を重ね体力の限界まで頑張ったのは完全優勝を目指していたからこそ耐えられた事であったのに、一人の心無い人間によって谷底へ落とされてしまうとは予想もしなかった悪夢であった。
 その後、相手チームの鴨沂高メンバーとの交流を通じて感じる事は、この大会の出来事は我々サイドに限らず双方のチーム、選手にとって不幸な出来事である。
(村山憲三)




 この水球史に残る大誤審(といっても意図的な誤審なのだが)を目撃した一人として、村山さんのコメントに少し追加させていただきたい。今、想い出してもあんな異様な雰囲気の試合を見たことはほかにない。最終クォーター、不可解なジャッジに激高した小陳さんは、ゲームはそっちのけで相手チームの選手をゴール前で追い回し、相手選手もゲームそっちのけで逃げ回るといった光景が繰り広げられた。試合終了後、桑山さんに食ってかかられた審判K氏はコソコソと逃げ出す始末。閉会式で並んだ鴨沂高の選手に村山さんが「実力で勝ったなんて思うなよ!」と言い放っていたのが印象的だった。翌日のバス観光では鴨沂高の選手と度々鉢合わせ、桑山さんに睨まれた鴨沂1年生の佐藤君が逃げ回っていた姿を想い出す。(柴田範房)


決勝戦が行われた鶴ヶ城内会津若松市営プール

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# by swpc | 2011-11-03 22:10 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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