会津若松国体(昭和36年)の想い出(1)

 この映像は昭和36年9月、福島県会津若松市で行われた第16回国体夏季大会の様子です。予選リーグは会津若松市立第一中学校プールで行われました。映像は熊本県選手団の宿舎があった鶴ヶ城内の旅館からバスで試合会場に向かうところから始まっています。市民から大歓迎を受けている様子が見てとれます。義宮様(現常陸宮様)が水球競技の視察に来られた様子も映っています。試合は1回戦か2回戦か不明ですが、済々黌の帽子のナンバーに大きい数字が見られるので、私は上がりでカメラを回した記憶があります。全体的に余裕のあるゲーム運びで小陳、坂本、平田等の表情も見ることができます。当時の済々黌水球のゲーム運びは泳ぎ中心でしたが、この試合ではその特長は表れていないようです。ノーマークの小陳がキーパー不在のゴールに投げ込むところは練習時と同じ表情です。多分プールサイドには、京都府の監督川井先生が決勝に向けての偵察に来られていたので矢賀監督も「手の内を見せるような采配はやらないので思うようにやれ」と試合前のミーティングで言われたことを思い出します。この大会は途中で台風に見舞われ、競技日程が1日順延になったり、停電で真っ暗になった旅館の大広間に蝋燭を立て、熊本県選手団が全員黙々と食事をした思い出があります。この後の決勝戦だけは、メーン会場の鶴ヶ城内会津若松市営プールで行われました。その様子はまた後日掲載します。
(村山憲三)



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# by swpc | 2011-11-01 18:53 | Trackback | Comments(0)

国際選手群像

 濟々黌水球部はこれまで数多くの国際選手を輩出した。昭和42年(1967)に熊本日日新聞社から発行された「熊本の体力」には、これについて下記のように記述されている。
 なお、昭和42年以降の国際選手については、またいずれご紹介したい。

▼国際選手群像
 全国制覇五回のほか、インタハイ、国体の成績をみると済済黌水球部は、準優勝十二回、第三位四回とその実績は日本水球界のトップクラスであり、西日本高校水上大会(末弘杯)では十八連勝をなし遂げて無敗のレコードを伸ばし続けている。戦後の二十一年に誕生した済済黌水球部だが、名門としての伝統はすでにじゅうぶん。そして数々の名選手を生み出してきた。国際試合に出場したOB選手は、アマチュアスポーツマン最高の栄誉であるオリンピックも含めて十四人、延べ三十人の多きを数えている。
 年を追って国際選手群像を見てみると、まず二十九年の第二回アジア大会(マニラ)に田代二生と古賀伸一郎、三十年の香港遠征チームには水垣憲二、田久保徹、井上融、宮村元信、内田啓一が加わった。三十二年にパリで開かれた国際学生大会には田久保、宮村と飯田桂三。三十三年の第三回アジア大会(東京)に宮村、三十五年の第十七回オリンピック・ローマ大会には宮村と藤本重信、柴田徹の三人。三十六年のブルガリア国際学生大会にも藤本と柴田が出場、三十七年の第四回アジア大会(ジャカルタ)は田久保、藤本。この二人は三十八年のヨーロッパ遠征にも加わり、ブラジル国際学生大会に桑山博克と米原邦夫、三十九年には東京オリンピックに藤本が出場し、さらに田久保、藤本、村山憲三はヨーロッパに遠征した。四十年のブダペスト国際学生大会には田代が監督となり、村山、桑山、米原の三選手が参加した。また四十一年のアジア大会では菅原平が日本チームのコーチをつとめ桑山博克、坂本征也がその優勝メンバーに加わった。
 済済黌水球部のOBは、いまや日本水球界で大きな地位を占め、各大会で活躍を続けている。それらの功績に対して、三十八年には第十三回熊日社会賞が済済黌水球部に贈られている。


ローマ五輪(1960)に出場の藤本重信、宮村元信、柴田徹の3選手を激励する平田先生ご夫妻と矢賀さん


東京五輪(1964)に出場の藤本重信選手を激励する平田先生

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# by swpc | 2011-10-28 19:48 | Trackback | Comments(0)

国体に向けて猛練習 ~昭和36年夏~

 この練習シーンは、私の兄がインターハイの優勝後(S36年夏)に撮影してくれたものと記憶しています。それから丁度半世紀が経過した訳です。当時の練習を昨日のように思い出します。当時は鬼に見えた矢賀さんの姿も今では懐かしいですね。
 当時は、約40日間の夏休み期間中に練習休みは半日(午前のみ)が2日間程度で完全な休みは、遠征に行く時の車中だけでした。そんな猛練習のお陰でチームメイトと共に多くの栄光を手にする事が出来て人生の大きな糧となり今日があるような気がします。
 ファインダーとレンズの組み合わせがずれて中心が外れているのが残念です。
(村山憲三)



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# by swpc | 2011-10-27 15:26 | Trackback | Comments(0)

元日恒例 水前寺プールで初泳ぎ!

 かつて濟々黌水球部の正月元旦の恒例行事は、水前寺プールでの初泳ぎだった。村山憲三さんから送っていただいたこの映像は、登場する顔ぶれから見て昭和35年(1960)の正月の風景と思われる。確認できるだけでも米原さん、宮本さん、坂本さん、宮川さん、大村さん、奥村さん、村山さん、桑山さん、入江さんらの顔が見える。現在、水前寺成趣園の能楽堂がある辺りにはかつて25mの湧水プールがあった。湧水だから冬期は比較的温かく感じられるということだったのだろうが、それでも水温は18度くらいではなかったろうか。逆に夏にはこのプールは冷たくて長く入っていられなかった憶えがある。この水前寺プールでの初泳ぎも私が卒業する頃にはなくなり、済々黌のプールなどを使うようになった。どういう事情だったのか記憶にない。すぐ近くには熊本市立体育館も建てられていたが、1999年の台風で破損し、その後取り壊された。今は電停にその名を残すのみである。(柴田範房)


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# by swpc | 2011-10-22 17:22 | Trackback | Comments(3)

栄光の日 ~1961年8月21日 熊本駅~

 村山憲三さん(昭36卒)から大量かつ貴重な資料を送っていただいた。済々黌関係の記念誌、日本水泳連盟の機関誌、8ミリフィルムをDVD化したもの等々。過去を振り返ろうにも資料が乏しかっただけに本当にありがたい。
 どこから手を付けようかと迷ったが、とにかくわかりやすい動画から始めてみた。まずは、ブログのヘッダーにも使っている1961年8月のインタハイ2連覇を達成し、熊本駅に凱旋した時の様子をフィルムに収めたもの。わずか1分程度の短い映像だが、当時の光景がまざまざとよみがえる。たしか決勝戦の翌日、8月21日だったと記憶しているが、とにかく暑い日だった。夏休みの真っ最中で学校関係者やPTAなど出迎えも少なかったのはちょっと残念だったが、済々黌水球部の最も輝ける日であったことは間違いない。既に鬼籍に入られた部長の平田先生とコーチの矢賀さん、トロフィーを抱えた主将の村山さん、小陳さん、入江さん、桑山さん、坂本さん、堀さん、松田さん、豊永さん、下村君、深迫君、福永君、藤本君、平田君、当時1年生で駅まで出迎えに行った、不肖私もチラッと映っている。皆さんの若々しい顔を見ると思わず涙が出そうになる。(柴田範房)


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# by swpc | 2011-10-19 16:55 | Trackback | Comments(0)

冬場の鍛錬場となった栃木温泉・小山旅館

d0251172_19161493.jpg 熊本市内には温水プールもまだ無かった時代、冬場の基礎体力、基礎泳力を養う場となったのが阿蘇長陽村の栃木温泉・小山旅館である。南阿蘇の白川渓谷に開かれた栃木温泉は、対岸に国の天然記念物「北向山原始林」を望む大自然に囲まれたひなびた温泉で、源泉が発見されたのは1600年代の半ばというから相当古い。その豊富な湯量により古くから湯治場として栄えた。
 その栃木温泉の中でも老舗の小山旅館には25mの温泉プールがあった。ここが濟々黌水球部の冬場の格好の鍛錬場となったのである。ここで培った基礎体力が夏場の厳しい練習に耐えるベースとなったことは間違いない。
 しかし、その栃木温泉も立野ダム建設計画により埋没するとの話が持ち上がり、各旅館も上の方へ移動した。またこれに伴い「鮎返りの滝」へ降りる道も閉鎖され、プールも使えなくなってしまった。小山旅館は現在、休業中である。(柴田範房)


小山旅館の玄関前で昭和38年のメンバー。
左から藤本(勇)、平田、西本、藤本(重)、野中、徳永、下村、村上、柴田、田中(筑紫ヶ丘)、福永、深迫


滝壺の前で下村と私(昭和40年)

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# by swpc | 2011-10-13 19:49 | Trackback | Comments(0)

水泳の聖地は今・・・

 昭和35年、熊本国体において宿敵鴨沂高校との熱戦が繰り広げられ、その後も大会前の強化合宿などに使用していた「熊本県営城内プール」は現在、「桜の馬場城彩苑」という観光施設に姿を変え、かつての面影はどこにも残っていない。この通称「城内プール」は昭和35年(1960)の熊本国体にあわせて造られ、以後40年余り、市民の夏の遊園地でもあったが、競泳や水球の公認プールとして数々の大会に使用されてきた。熊本の水泳関係者にとってはいわば「水泳の聖地」だったところだ。「桜の馬場城彩苑」の繁栄ぶりを見るにつけ、一抹の寂しさを感じるのは私だけだろうか。
(柴田範房)



昭和35年の熊本国体における鴨沂高との水球決勝。主将島田のシュート。


かつて城内プールがあった桜の馬場に今年3月にオープンした「桜の馬場城彩苑」の全景


50m公認プールがあった辺りには「湧々座」という熊本の歴史文化展示施設が建っている。
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# by swpc | 2011-10-11 13:51 | Trackback | Comments(0)

済々黌水球部史上の最強チームは?

 済々黌水球部史上の最強チームはどのチームだろう。以前、OBが集まった席でそんな話題が出たことがある。私自身は全時代のチームを見たわけではないので確たることは言えないが、黄金時代を築いたコーチの矢賀正雄さんが生前仰っていた言葉を思い出してみると、それはやはり、1961年のチームだったのではないかと思う。とても幸せなことに私はこの1961年に入学し、その強さをこの目で見ることができた。今思えば、ミーティングの時などの矢賀さんの指示ぶりも自信に満ち、手ごたえを感じておられたように思う。実績から言っても、部史上ただ一度のインタハイ連覇を成し遂げているし、下に掲げたこの年の主な戦績を見てもわかる。このチームの素晴らしさはGK入江、バック村山、中盤桑山、フォワード小陳という超高校級の3年生で固めた強力な縦のラインだろう。ただ、とても残念だったのは、この年はインタハイ、国体の二冠が確実と言われていたにもかかわらず、悪夢のような国体の決勝戦によってそれを阻まれたことである。この高校水球史の汚点とも言える昭和36年の会津若松国体決勝戦についてはまたいずれ述べたい。

(柴田範房)





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※データは日本水泳連盟機関誌「水泳」より抜粋
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# by swpc | 2011-09-15 13:12 | Trackback | Comments(0)

二年連続四度目の勝利

 三十六年のインタハイで済済黌水球部は二年連続四度目の優勝を記録した。すでに優勝経験を持つ桑山、入江、小陳らの三年生がチームの主力となり、連勝の気迫を燃やして練習を続けた。部員は主将・村山憲三、桑山博克、入江昭雄、小陳修臣、堀緑容、坂本誠也、豊永修介、松田康、福永冠治、下村佑次郎、平田和彦らである。その努力によってぐんと力のあるチームに育った。五月の末広杯高校大会で、文句なしに十三連勝を飾ってこの年のスタートを切った。
 さらに七月には東京で開かれた日本選手権水上大会の水球に大学チームにまじって出場した。一回戦で明治大の駿台クラブと対戦し大接戦のすえ10-9で勝ち、二回戦でも法政大Bチームに7-6の1点差で勝って三回戦に進んだ。ここで大学チームのNO1日大に敗れたが、高校チームが全日本選手権で三回戦まで勝ち残ったのは済済黌が初めてで、その新記録によって“済済黌水球部”は実力を高く評価された。
 選手たちが自信を持ったのはいうまでもない。連勝の意欲に満ちて八月十八日から石川県の金沢市営プールで開かれたインタハイに臨んだ。参加校は十五校で前回優勝の済済黌はシードされて一日目は不戦勝ち。大会第二日の十九日、準々決勝で早大学院(東京)と対戦したが、試合は一方的。11-0で大勝した。つづく準決勝の相手校山城高(京都)も寄せつけず、16-2で破って決勝戦へ進んだ。
 大会最終日の二十日は雨の悪コンディション。決勝は宿敵の鴨沂高(京都)である。前年の熊本国体でも決勝戦で対戦し、地元での優勝を夢に終わらせた鴨沂だった。済済黌は激しい闘志をむき出してゲームを盛り上げた。そして終始鴨沂を圧倒し、5-3で連続二年の全国制覇をなし遂げた。

 この決勝戦のもようを熊本日日新聞はつぎのように評した。
 ――「動きの速い済済黌が優位に試合を進めた。第一クォーター47秒済済黌は坂本がマークをはずしてシュート、先取点を上げた。3分には小陳―坂本のうまいパスで2-0とはなした。このあと鴨沂に2点を許し同点に追いつかれた。しかし小陳―坂本のコンビで勝ち越し点をあげ、第四クォーターの1分30秒村山がゴール左からGKのタイミングをうまくはずして大勢を決めた。するどい出足と激しい闘志をもつ攻撃陣、さらにGK入江の好守もあり順当の勝利だった」――
 三十二年の国体優勝を加えれば五度目の全国優勝であった。


昭和36年春、済済黌グラウンドにて恩賜大運動会のパレード前


凱旋した熊本駅ホームで黌長や関係者の出迎えを受ける


※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-09-08 15:59 | Trackback | Comments(0)

インタハイ三度目のタイトル

 三十五年の第二十八回インタハイで済済黌は三度目の優勝をものにした。
 三十五年は第十五回熊本国体の年である。あらゆる種目がそうであったように、済済黌の水球部には郷土の国体に花をそえる優勝の期待がかけられていた。主将の島田輝昭、奥村昭吾、大村健治、桑山博克、小陳修臣、入江昭雄、堀緑容、坂本征也、豊永修介、大迫寿正、上村洋らこの年の水球部員は小がらばかりで、技術的にも過去のチームにくらべたらまだ相当の開きがあった。はっきり言って全国優勝の望めるチームではなかった。部長の平田忠彦、コーチの矢賀正雄は“熊本国体”を目標に「練習だけが勝利への道だ」と選手たちを励まし、三月から練習に入った。血のにじむような猛練習が続き、技術、精神両面でもしだいにうまく、たくましく育っていった。在京の先輩は東京での合宿練習をすすめ、選手たちは七月下旬から日大プールの合宿、大学チームとの合同練習で、見違えるほどの強チームに生まれかわった。
 インタハイは八月二十九日から三日間東京・神宮プールで開かれた。水球の参加チームは十六校。済済黌はシードされた。一回戦の相手学習院高(東京)は棄権のため不戦勝ち。二回戦では天理高(奈良)と対戦したが20-0の大差で寄せつけなかった。三回戦は準決勝。だがこの成蹊高(東京)も問題なく11-1と快勝した。
 最終日の決勝相手ほ強敵の鴨沂高(京都)。済済黌は猛練習で得た力を十二分に発揮して高校水球界の覇者となった。
【評】済済黌はスタートから好調。開始後1分鴨沂ゴール前の混戦でフリースローを得た小陳からのパスを奥村がキーパーの逆をついて左隅にシュートを決め先制点をあげた。つづいて5分には奥村からのパスを小陳が左サイドから決めて早くも2点をリード。鴨沂も7分に小野が中央から左隅に決めて1点差とし、さらに8分済済大村の反則退水でチャンスをつかむかにみえたが、済済の固いディフェンスにあって得点できず2-1と済済リードのまま前半を終わる。後半に入って鴨沂は1分に林が同点シュートを放って反撃の気配をみせる。しかし済済はよく球につき、4分には奥村が右隅、5分には小陳が左隅と得点をかさね、7分にも鴨沂林の退水のときゾーンでたくみにゴール前に球を回し、堀が右隅に駄目押しともいえる5点日をあげた。…選手の体力においては鴨沂がはるかにまさり下馬評互角の決勝戦で激戦が予想されたが、済済黌のファイトとまとまったチームワークは勝負を一方的にした(八月二十二日付け、熊本日日新聞)


左から堀、坂本、小陳、大村、島田、桑山、入江


 しかしつづく熊本国体では鴨沂に1-2で敗れて準優勝に終わった。だが非力なチームでも努力すれば勝てるという教訓を残したインタハイの優勝だった。


前列左から島田、堀、後列左から小陳、大村、桑山、入江、奥村


※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-09-01 13:32 | Trackback | Comments(0)

静岡国体でも優勝

 静岡国体の夏季大会は九月二十二日から四日間浜松市の元城プールを主会場に行われた。水球競技は大会第三日の二十四日に始まった。参加校が少なく、東京代表の城北、京都代表の山城と濟々黌の三チーム。チーム数は少ないが当時としては高校レベルの最高である三地区代表だけに、三校リーグの試合内容はすぐれたものであった。
 平田部長と、水球部の大先輩としてコーチを買って出た矢賀正雄は、選手たちといっしょになって国体優勝の悲願達成に全力を注ぎ、強力なFWを持つチームでこの大会にのぞんだ。
 メンバーは、主将の吉邑紀義以下藤本重信、梅本秀一、桑山隆弘、柴田徹、米村彰芳、米原邦夫、宮川弘之、柴垣武彦、小泉満だった。
 大会三日目の九月二十四日、濟々黌は浜松北高プールで城北高(東京)と戦った。前半4-0、後半3-1、結局7-1で楽勝した。熊本日日新聞はこの試合評を次のように書いている。
 ――「7-1のスコアだが、実力的にはもっと開きがあったろう。プールが狭く水深がないため得点差をちぢめたといえる。熊本はFW藤本、吉邑のコンビがピッタリと合い、試合は熊本のペースで一方的に進められた」――
 そして最終日の二十五日午後一時から京都代表の山城高と優勝を争った。あいにくの雨で、気温は低くコンディションは最悪だった。高松宮殿下をお迎えして、選手は寒さも忘れて奮闘した。そして7-2で国体初優勝を飾ったのである。
 ▽水球決勝戦

 ――【評】濟々黌のFW藤本、吉邑のコンビが高校生ばなれのした妙技を随所に見せてくれた。開始2分山城ゴール前で両選手がスクリーン・プレーで藤本がノーマークとなってきれいにきめたのをはじめ、6分にも吉邑―藤本で右スミに2点目をあげてリード。さらに7分、それまで山城のチャンスの芽を再三つぶしていたLB梅本が中継からドリブルで突っ込み、ノーマーク・シュートを決めるなど鮮やかな試合運びをみせた。後半になって濟々黌の攻撃に手を焼いた山城はゴールを三人で守るという愚策をとったためかえって点差を開かれた――。(九月二十六日付け、熊本日日新聞)
 国体出場は過去連続三年、いずれも決勝で敗れて第二位だった。その濟々黌が三年連続優勝の京都・鴨沂高にかわって熊本に優勝旗を持ち帰った。


優勝旗を持って凱旋した熊本駅頭で祝福を受ける選手たち(1957.9.27)


※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-08-27 08:55 | Trackback | Comments(0)

肥後の伝統と水球

 濟濟黌の全国制覇について当時の熊本日日新聞はコラム「新生面」で、次のように水球競技のスポーツとしての良さを述べ、肥後の古流泳法の伝統を紹介している。
 ――「濟濟黌高校の水球部がインタハイで優勝して帰ってきた▼もしこれが野球の全国高校で優勝したのなら、熊本市中沸き返るような歓迎振りで、一人や二人熊本駅で踏み潰されるようなチン事が起こったかもしれないぐらいだが、水球優勝ではそんなこともなかった。(略)▼水球というと見たことのない人が多かろう。ボールをゴールに入れるのはフット・ボールと同じで、人数が少ない(七人)点からいうとバスケット・ボールに似ている▼もちろん選手一人一人の泳ぎのスピードと、ボールの操作の技術と全体のチームワークが主なファクターとなる。少ない人数でそのすべてを満足させるためには、全部のレベルが揃っていなくてはならない。そのため、特別なスターポジションというものはない(略)▼水球なども野球に押されて影が薄いが、運動としてはまず理想的な運動に属するだろう▼ところで水球でボールをシュートしたり、ゴールキーパーがシュートを防いだりする時、どうしても立泳ぎが必要となる▼濟濟黌の水球が強いのは、もちろん伝統と猛練習によるものであるが、その伝統というものの中には肥後水練の踏水術の伝統があることを見逃してはならない▼水球というと、クロールやバックやブレストなどの競泳と思い勝ちな人たちに『御前泳』が濟濟黌水球を優勝させた因子であったことを知っておいてもらうのは不必要なことではあるまい」――
d0251172_1555876.jpg こうしてインタハイで二度の優勝を遂げた濟濟黌水球部は、その後も国体、インタハイで三回の全国制覇を飾っている。そしてオリンピック選手延べ四人をはじめ、数多くの国際試合に出場する選手を生み出してきた。時代は三十年以降になるが、ついでに全国優勝と国際選手を中心にその後の活躍ぶりをながめてみよう。
 国民体育大会に高校府県対抗水球が加えられたのは、二十九年の第九回国体からである。インタハイでは二度の優勝経験を持つ濟濟黌だが、第九回いらい国体ではつねに決勝戦で敗れて第二位を続けていた。国体初優勝の栄冠に輝いたのは三十二年の第十二回静岡国体である。

※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-08-25 10:51 | Trackback | Comments(0)

二度目の全国制覇

 二度目の全国制覇は、二年後の二十八年である。この年は六・二六の熊本大水害の年だった。濟々黌にも付近の被災者がいっぱい避難して、プールは被災者たちの洗たく場となり、水球の練習などできる状態ではなかった。インタハイは近づくし、選手たちは練習のできない苦しみとあせりでじりじりしていた。八月になってやっとプールが使用できるようになり、選手たちはこれまでのブランクを取り戻そうと必死の練習に明け暮れた。わずか一ヵ月足らずの練習でインタハイにのぞむことになった。この年の水球部は部長・平田忠彦、コーチ・竜川武弘、主将・田久保徹、井上融、前田隆啓、宮村元信、渋谷竜志、江副一英、飯田桂三、田上新一郎、内田啓一、内田実、坂本敏寛であった。
 第二十一回日本高校水上大会は八月二十九日、三十日の両日、名古屋の振甫プールで開かれた。水球の参加チームは十四校、濟々黌は第一日の第一試合で前年の優勝校鴨沂(京都)と対戦、3-2でこの強敵をくだした。二回戦の池田(大阪)には16-0と完勝、準決勝でも西京(京都)に9-2と楽勝して三十日の決勝に進んだ。
 優勝戦は午後一時四十分から高松宮ご夫妻を迎えて開始された。対戦相手は山城(京都)。濟々は立ち上がりLB井上がドリブルで山城ゴールに迫り、パスを受けたCF田久保が決めてリード。その後の出足の良さと、スピードにのった攻撃で田久保にボールを集め、前半3-1の優位に立った。だが後半に入って濟々黌は得意の泳力を生かせず、山城の強引な攻撃で同点に持ち込まれる苦戦。しかし終了前3分に田久保が決勝のシュートを決めて、二度目の優勝を飾った。




二度目の全国制覇を果たし熊本駅に凱旋、在校生の歓迎を受ける(昭和28年9月1日)


※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-08-19 15:08 | Trackback | Comments(0)

水球チームの誕生そして初の全国制覇

 濟々黌に水球が生まれたのは戦後間もない昭和二十一年の夏であった。水球部の部長は吉田長善、八重島香二、山田繁と引き継がれ二十六年から平田忠彦がめんどうを見た。そのいずれも“水球”についてはしろうとであった。技術的には県水協の古荘次平、飯田寿平らの熱心な手ほどきに始まり、その後は若い先輩たちが入れ替わり、立ち替わり母黌のプールにやってきて、その練習にハッパをかけたのである。そして末広杯水上競技大会で知られる西日本高校水上では十七連勝の快記録を残した。
 ところで、この濟々黌水球チームが、全国制覇の目標に一歩近づいたのは二十五年の全国高校水上大会だった。安浪渡、古賀伸一郎、田代二生、大坪大学といった名選手をそろえ、決勝戦で慶応高と対戦した。一進一退の互角に渡り合い、最後は反則負けで準優勝に終わった。しかしチーム力からすれば史上最強といわれ、その不運に選手たちは涙を流したものである。
 インターハイで勝つ だが、その宿願を果たす日は翌年に訪れた。
 二十六年の水球部は平田部長、安浪渡コーチで選手は次の十一人だった。
 主将の佐伯卓三、菅原平、竜川武弘、大島淳之助、川北文男、坂田定苗、田久保徹、水垣憲治、田代晃一、中村允、井上融。
 主将の佐伯は平泳ぎの選手としても県下で一、二位を争うスピードがあった。選手はみんな水球の虫だった。なかでも副主将格の菅原は研究熱心だった。授業中によくノートをとっていると思うと、それは水球のフォーメーションの研究に没頭しているのだった。この二人のほか三年生の竜川、大島、川北、坂田は旧制中学最後の濟濟黌入学。学制改革で併設中学となり、濟濟黌在学六年目だった。一年先輩に好選手がそろっていたため試合に出るチャンスがなく、長い下積みの苦労ばかり重ねていた。“いつかはきっと試合に出てやるぞ”と歯を食いしばって下積みに耐え、やっとそのチャンスがめぐってきたのだ。試合がやりたくてうずうずしていた連中ばかりである。新人とはいえ、高校水球選手としてはすでにベテランの域に達していた。
 当時の日本高校選手権水上競技大会は、東西対抗の形式で行われていた。濟濟黌はまず八月十八日から奈良県の天理プールで開かれた西部高校選手権水上大会に参加し、準決勝で天王寺高(大阪府)を15-1で一しゅう、決勝でも福岡高(福岡県)を9-3でくだして優勝。西部代表校として東京神宮プールで日本一を争うことになった。
 水球決勝戦は八月二十四日午後五時二十分から行なわれた。相手は前年の大会で反則負けした慶応高(東京都)だった。“相手にとって不足はない。昨年のかたきをとってくれ”と安浪コーチは選手を励ました。気温三一・五度、水温二八度とコンディションは上々。スタンドは超満員で、その中には在京の先輩たちが懸命に声援を送る姿が見られた。
 試合は開始後二分にLB水垣が先制シュートを決めた。CF竜川とRF菅原の攻撃コンビのシュートもあって前半5点をあげ、2点をリードした。だが後半に入ると慶応も前回の優勝チームらしいうま味を発揮し、またたく間に同点に追いついた。その後はファイトとファイトがぶつかり合って激しい攻防となったが、濟濟黌FW陣は必死のがんばりでついに2点をあげ、7-5で強豪慶応をくだした。
 初優勝。だがその栄冠に喜ぶより、選手たちは試合終了と同時に精根尽き果て、プールからはい上がるのがやっとという激しい決勝戦だった。日本水連会長田畑政治から金色の優勝杯が主将の佐伯に授与され、初めて喜びがわいた。選手たちは平田部長、安浪コーチを中心に抱き合って泣いた。戦後の濟濟黌運動部にとって、この優勝は最初の全国制覇であった。
 「万年優勝候補」の汚名をそそいだこの優勝が、濟濟黌水球部の伝統を築くのにどれほど力があったかしれない。「地方熊本でも練習いかんでは優勝できる」「技術的には中央チームにも劣らない」という自信と希望を与えた。それが現在の濟濟黌水球部のなかに生きて“水球の濟濟黌”か“濟濟黌の水球”かといわれる名門チームとなっているのである。

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※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋

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初の全国制覇メンバー
前列左から竜川、佐伯、菅原。後列は水垣、田代、大島、田久保。後は顧問の江口先生と部長の平田先生
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# by swpc | 2011-08-15 03:33 | Trackback | Comments(0)

始まりは五高プール

 熊本水泳界の戦後の立ち上がりも、他の種目と同じく、たいへんな苦労の連続だった。
 協会としては、日本水連の規約にしたがい、熊本水泳界の窓口となる代議員も選任した。古荘次平、滑石信一のほか、熊本商時代平泳ぎの選手で、早大を出て茨城県の日立製作所多賀工場に勤めていた太田秀次郎を在京代議員とした。こうした協会としての動きが活発になればなるほど、練習プールの建設は切実な問題であった。
 五高プールで 水泳協会員の練習場として、まず五高のプールに白羽の矢が立った。場所はいいし、五十㍍の公認のプールだ。交渉の結果、自分たちで掃除をし、水を入れて使用するのならいいとの承諾を得た。正式に借用願いを提出したのは二十一年の三月十九日だった。

 初の記録会 泳げるプールは熊本市内では五高プールだけ。水協の呼びかけで、熊中、濟濟黌、熊商に水泳部が誕生し、連日五高プールに集まって合同練習を始めた。
 そして六月三十日に、この中学三校の水上競技記録会が五高プールで開かれた。主催は三校の水泳部で熊本水協が後援した。まだまだ練習不足で、戦前の県中等記録とはほど遠く低調だったが、元気いっぱいの水しぶきは、審判長をつとめた古荘次平ら水協会員たちを喜ばせた。

 ▽百自由 1石川(熊中)1分20秒2 2岡田(熊商)1分26秒8 3上村(濟濟)1分26秒8
 ▽二百自由 1矢賀(濟濟)3分11秒8 2伊藤(熊中)3分37秒8 3村上(同)3分42秒2
 ▽四百自由 1矢賀(濟濟)7分12秒0 2矢島(同)8分28秒2 3谷口(熊中)9分17秒0
 ▽二百平 1松本(熊商)3分34秒0 2渡辺(濟濟)3分43秒8 3山下(熊中)3分52秒8
 ▽百背 1毛利(熊中)1分39秒4 2石川(同)1分40秒0 3木村(濟濟)1分54秒0
 ▽二百リレー 1濟濟(2分23秒8) 2熊中(2分25秒8)
 ▽八百リレー 1濟濟(14分44秒0) 2熊中(15分12秒)



濟々黌プールにて草創期のメンバー(胡坐が矢賀さん、後左から3番目が木村さん)
その他の方は編集者の記憶が不確かですので、あえて記名していません。
ご本人またはご存じの方はご連絡下さい


同上


【人物MEMO】
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▽古荘次平(ふるしょうじへい)故人
 大正三年生まれ、熊本市出身、熊本商業、早稲田大学卒。早大時代平泳ぎから水球のゴール・キーパーに転向、伝説的な猛練習で日本代表チームに選ばれ、ベルリン・オリンピック(1936)に出場した立志伝中の人。身に付けていた熊本伝統の「小堀流踏水術」が役立ったという。戦後は熊本県体協理事長などをつとめ県スポーツの振興に尽力。濟濟黌水球部の創設・発展に大きな役割を果たす。株式会社シロヤパリガン創業者。写真はベルリン・オリンピックの時の勇姿。
Water Polo Legendsより)

※出典「郷土スポーツの歩み 熊本の体力」(昭和42年 熊本日日新聞社刊)より抜粋
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# by swpc | 2011-08-14 00:00 | Trackback | Comments(0)

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


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濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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