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オリンピックの華 - 東京大会(1964) -

◇藤本重信選手 (24)
 熊大付属小-熊大付属中-濟々黌-日大-BSタイヤ
“右だ” “それ前へ出ろ” “当たらんか” 矢賀正雄コーチ(竜南中教諭)の厳しい指示がプールサイドからとぶ。部員たちはこれに忠実に右へ左へとボールを追って水しぶきをあげる。
 高校水球界の名門にふさわしいハード・トレーニングが毎日、日の暮れるまで続けられる。この厳しい練習から持ち前のファイトが養われるのだ。

オリンピックの華 - 東京大会(1964) -_d0251172_16355840.jpg 水球はスポーツの中でもとくにスタミナを要する競技。ローマ大会でもソ連とハンガリーが水中で流血騒ぎまで起こしたように、この競技にはトラブルもつきものだ。それだけになにものにも負けぬファイトが要求される。「濟々黌の水球」といわれるまでになったのも、先輩たちに“ファイト”プラス“チーム・ワーク”があったからだ。
 国際試合を経験した日本選手は、必ずといっていいほど、体の大きい外国選手におびえる。その中で藤本だけはいっこうに気にもしていない。「水中でけられたらけり返しますよ。それだけハラがすわっていないと絶対勝ちっこありません」と平気な顔。このファイトも濟々黌時代に養われたと同選手も述懐するように、同校を巣立っていった選手にはファイターが多い。矢賀コーチも「その藤本が濟々黌時代はどちらかといえばおとなしい方だったのだから、およそウチのチーム・カラーもわかるでしょう」と笑う。
 “人には負けぬ闘志” これは濟々黌の校風であり、伝統でもある。同校の有名な三綱領の中にも「重廉恥振元気」の一項が光っている。
 戦前は剣道で通算11回の全国制覇をなしとげ、濟々黌の名は全国にとどろいた。戦後も水球をはじめ、ハンドボール、陸上などに全国優勝の豊富な経験を持つ同校は県下随一のスポーツ名門校といえる。

 国体などの全国大会で実力がありながらみすみす予選落ちする学校が多いなかで、濟々黌の選手は逆に実力以上の成績をおさめてくることもしばしばだ。イエローラインに象徴される濟々黌魂-母校への誇りが、自信となって勝負強さを発揮するのだろう。水球部はそのもっとも典型だ。

 濟々黌水球部は38年、その輝かしい実績が認められて熊日社会賞をうけた。部創立は終戦直後の21年夏。その翌シーズンには全国大会の準決勝まで進出、その3年後には初の全国制覇をなしとげ、いらい国体優勝も含め、5回の全国制覇を経験してきた。また末弘杯大会(西日本高校選手権)でも24年から今日まで連続16回も優勝している。したがって末弘杯では“必ず勝つ”という自信から、実力的には劣勢の試合でも最後に逆転して勝ったというケースが多い。同校の場合、実力にプラス・アルファがある。「それが“伝統″だ」といわれるのもうなずけることだ。そしてさきのローマ大会には宮村元信、藤本重信、柴田徹の三選手が水球代表として参加し、同校水球部の歴史に輝かしい1ページを刻んだ。
 しかしチームの発展のため、陰になり日なたとなって努力してきた平田忠彦部長(50)も忘れることのできない人。平田教諭は初の全国制覇当時からの部長で、「九州に濟々黌あり」と全国に同黌の水球を高めた最大の功労者だ。技術面の指導はもう10年間もコーチをつとめるOBの矢賀氏にすっかりまかせっきり。プールサイドに控え目に立って部員の練習をじっと見守る姿は同黌水球部の父といわれる存在にふさわしい。

 平田部長は大声をあげない。絶対に怒らない。常に平静だ。水中からあがってくる部員一人一人を、激励するような調子でアドバイスする。柔和な目をさらに細めて話しかける。実の父親のように部員一人一人の面倒もよくみ、親身になって世話をする。それだけに部員の信望も絶大だ。同水球部の強さの一つといわれるチームワークも同教諭を中心とした部員たちの「和」から生まれたものだ。
 夏休みになると同黌プールには必ず卒業生たちが駆けつけて、平田部長と談笑し、後輩たちを鍛えあげる。なかには熊本駅からそのまま直行してくるOB達もいる。彼らは口をそろえて「平田部長の顔をみるまでは帰ったような気がしない」という。藤本にしても同教諭が上京した際はどんなに忙しくても時間をさいて駆けつける。
 さきほど水球の関東大学リーグ戦で生まれた「高木・飯田杯」も若くしてなくなった濟々黌出身の両氏を偲ぶ先輩・後輩たちの友情の産物だった。こうしたタテ、ヨコの堅いキズナこそ濟々黌の伝統的なバックボーンなのだ。

 こうしたスポーツの名門・濟々黌も、野球の全国制覇を頂点に最近やや低迷気味だ。水球は例外としても、、野球部などはナインをそろえるのに苦労しているという。ここにも試験地獄に委縮した現在の高校制度の矛盾がうかがえる。
 しかし濟々黌に水球部のあるかぎり、そして藤本選手のオリンピック二度日の出場をきっかけに、同高校の輝かしい伝統は再び新しい前進と飛躍を続けることだろう。
(昭和39年9月熊本日日新聞)

by swpc | 2012-03-05 16:49

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


by swpc

Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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