水球19年(その1)
随分久しぶりの更新です。
先月30日(11.30)は平田忠彦先生の九回忌でした。それに合わせて更新するつもりでしたが遅れてしまいました。お詫びいたします。
さて、平田先生が71歳の時、自叙伝「水と陸と」を出版されました。その中から、済々黌水球部の思い出に関する部分を、あらためて掲載し先生の遺徳をしのびたいと思います。

▼最初の全国制覇
私が濟々黌に赴任したのは昭和25年の7月であった。学期途中での発令であったので、最初の一年間は授業だけで、担任もなくクラブの顧問もなかった。毎日割りとひまだったので校庭に出てはいろいろのクラブを見て廻った。その頃は野球がひどく強かった時代であったが、グラウンドにはいつも野球の後援会の人たちが沢山来ていて、必ずしも私には好感がもてなかった。プールにも何度か顔を出したが、水球のことは全然私にはわからなかったのでそれ程関心ももたなかった。そして、26年度の新学期を迎えると私は俄かに多忙になった。3年4組の担任と水球部の顧問とを仰せつかったからである。私にとって水球は全く未知の競技であったので一からの勉強であった。
濟々黌の水球は戦後21年に始まり、5年の才月を経た今その実力は、既に全国1・2位を争うまでに成長していた。昭和25年度の選手の顔ぶれを見ても判るように、安浪・田代・古賀・大坪・高木の諸選手は泳力といい技術といい高校超一流の人たちばかりで、インターハイ決勝で慶応に敗れたのが不思議なくらいであった。その時の顧問は山田繁先生であったが、新学期を迎えると部の内部事情もあって先生が顧問就任を固辞しておうけにならないので、私にその役が廻って来たというわけであった。勿論佐伯君を中心とした3年の選手諸君の私への直接交渉も私の心を動かした。
26年度のチームは佐伯卓三君を主将とし菅原・竜川・大島・水垣・田代・田久保の7選手を中心に河北・中村・井上の諸君で編成されていた。たしかに前年度はどの凄みはなかったかもしれないが、チームワークのよさは抜群であった。練習中はいろいろ怠けたり休んだりする人もいたが、いざとなると皆団結した。佐伯・菅原の名コンビがチームを引っぱっていった。コーチの安浪君の努力も大きかったしマネージャー坂田君の周到な心配りも大変な効果をあげていた。
末弘杯で優勝・九州選手権で優勝、今度は天理での西部高校大会に出場することになった。8月16日、急行「阿蘇」で出発したが、車中で偶然私の大先輩松前重義先生にお会いしたために、先生から果物一籠の差入れをいただいたりして幸先のいい旅立ちであった。
天理プールでの試合は皆楽勝で悠々西部高校で優勝した。宿舎は天理教の東肥教会とかいう所であったが、信者の方々の心からの奉仕で快適な毎日を送ることが出来た。その上宿料が廉価であったので遠征費が大分節約出来た。これが後で東京に行ってからひどく役に立つことになった。先輩の木村君が熊本から応援にかけつけてくれたのも私にはひどく有難かった。天理での試合終了後当時日本最強といわれた近水クラブとの練習試合もした。いよいよ東京での東西対抗のインターハイ決勝に出場だというわけで、関西水連の田口氏総監督の下に競泳男女・飛込・水球の各選手団を編成、21日大阪に向った。大阪ではスポーツマンホテルに一泊、練習は近くの扇町プールに行った。22日朝大阪発東京に向ったが、大阪駅にはわざわざ関西水連会長の高石さんが見送りにおいでになった。有難いことであった。
東京での宿舎は本郷の太栄館であった。天理と違い毎日大変な御馳走で、夜食にも天ぷらそばなどが出て皆大よろこびであった。熊本を出発する時はまさか東京まで行こうとは考えてもいなかったので、服装なども不揃いでいかにも田舎チームらしいみすぼらしさであったが、今さらどうしようもなかった。遠征費も底をつき、電報で学校から金を取り寄せるといった状態であった。
それでも神宮プールで行なわれた8月24日の対慶応の水球決勝戦では見事に優勝した。全員が一丸となって攻め且つ守った。そして濟々黌水球史上初の全国制覇を成しとげたのであった。
その夜のことである。マネージャーの坂田君が私の部屋にやって来て「先生一寸のどがかわきます」というので、皆で坂下のおでん屋に行ってビールで乾杯した。弱小チームなどとあざけられ、それほど期待もされていなかったチームが、今、初の優勝をなしとげて、濟々黌の水球史上に燦として輝く偉勲をたてたのだから、選手たちのうれしい気持ちも私にはよくわかった。今までの練習の苦しさもふっとんで、ただよろこびに酔う選手たちであった。
その後10月の22日から6日間、私の担任であった3の4の小山善一郎君の肝入りで、映研主催の科学映画の鑑賞会が大劇で行なわれたが、この時に濟々黌の水球全国制覇のニュース映画も同時に上映され、大変な好評を博したものであった。キーパーの佐伯君(現セキスイハウス九州本部長・同取締役)をはじめ全選手の活躍が手にとるように画面にあらわれた。私の姿も出た。「勝つことの大切さ」をしみじみと教えられたひと時であった。(続く)
先月30日(11.30)は平田忠彦先生の九回忌でした。それに合わせて更新するつもりでしたが遅れてしまいました。お詫びいたします。
さて、平田先生が71歳の時、自叙伝「水と陸と」を出版されました。その中から、済々黌水球部の思い出に関する部分を、あらためて掲載し先生の遺徳をしのびたいと思います。
(柴田範房)

▼最初の全国制覇
私が濟々黌に赴任したのは昭和25年の7月であった。学期途中での発令であったので、最初の一年間は授業だけで、担任もなくクラブの顧問もなかった。毎日割りとひまだったので校庭に出てはいろいろのクラブを見て廻った。その頃は野球がひどく強かった時代であったが、グラウンドにはいつも野球の後援会の人たちが沢山来ていて、必ずしも私には好感がもてなかった。プールにも何度か顔を出したが、水球のことは全然私にはわからなかったのでそれ程関心ももたなかった。そして、26年度の新学期を迎えると私は俄かに多忙になった。3年4組の担任と水球部の顧問とを仰せつかったからである。私にとって水球は全く未知の競技であったので一からの勉強であった。
濟々黌の水球は戦後21年に始まり、5年の才月を経た今その実力は、既に全国1・2位を争うまでに成長していた。昭和25年度の選手の顔ぶれを見ても判るように、安浪・田代・古賀・大坪・高木の諸選手は泳力といい技術といい高校超一流の人たちばかりで、インターハイ決勝で慶応に敗れたのが不思議なくらいであった。その時の顧問は山田繁先生であったが、新学期を迎えると部の内部事情もあって先生が顧問就任を固辞しておうけにならないので、私にその役が廻って来たというわけであった。勿論佐伯君を中心とした3年の選手諸君の私への直接交渉も私の心を動かした。
26年度のチームは佐伯卓三君を主将とし菅原・竜川・大島・水垣・田代・田久保の7選手を中心に河北・中村・井上の諸君で編成されていた。たしかに前年度はどの凄みはなかったかもしれないが、チームワークのよさは抜群であった。練習中はいろいろ怠けたり休んだりする人もいたが、いざとなると皆団結した。佐伯・菅原の名コンビがチームを引っぱっていった。コーチの安浪君の努力も大きかったしマネージャー坂田君の周到な心配りも大変な効果をあげていた。
末弘杯で優勝・九州選手権で優勝、今度は天理での西部高校大会に出場することになった。8月16日、急行「阿蘇」で出発したが、車中で偶然私の大先輩松前重義先生にお会いしたために、先生から果物一籠の差入れをいただいたりして幸先のいい旅立ちであった。
天理プールでの試合は皆楽勝で悠々西部高校で優勝した。宿舎は天理教の東肥教会とかいう所であったが、信者の方々の心からの奉仕で快適な毎日を送ることが出来た。その上宿料が廉価であったので遠征費が大分節約出来た。これが後で東京に行ってからひどく役に立つことになった。先輩の木村君が熊本から応援にかけつけてくれたのも私にはひどく有難かった。天理での試合終了後当時日本最強といわれた近水クラブとの練習試合もした。いよいよ東京での東西対抗のインターハイ決勝に出場だというわけで、関西水連の田口氏総監督の下に競泳男女・飛込・水球の各選手団を編成、21日大阪に向った。大阪ではスポーツマンホテルに一泊、練習は近くの扇町プールに行った。22日朝大阪発東京に向ったが、大阪駅にはわざわざ関西水連会長の高石さんが見送りにおいでになった。有難いことであった。
東京での宿舎は本郷の太栄館であった。天理と違い毎日大変な御馳走で、夜食にも天ぷらそばなどが出て皆大よろこびであった。熊本を出発する時はまさか東京まで行こうとは考えてもいなかったので、服装なども不揃いでいかにも田舎チームらしいみすぼらしさであったが、今さらどうしようもなかった。遠征費も底をつき、電報で学校から金を取り寄せるといった状態であった。
それでも神宮プールで行なわれた8月24日の対慶応の水球決勝戦では見事に優勝した。全員が一丸となって攻め且つ守った。そして濟々黌水球史上初の全国制覇を成しとげたのであった。
その夜のことである。マネージャーの坂田君が私の部屋にやって来て「先生一寸のどがかわきます」というので、皆で坂下のおでん屋に行ってビールで乾杯した。弱小チームなどとあざけられ、それほど期待もされていなかったチームが、今、初の優勝をなしとげて、濟々黌の水球史上に燦として輝く偉勲をたてたのだから、選手たちのうれしい気持ちも私にはよくわかった。今までの練習の苦しさもふっとんで、ただよろこびに酔う選手たちであった。
その後10月の22日から6日間、私の担任であった3の4の小山善一郎君の肝入りで、映研主催の科学映画の鑑賞会が大劇で行なわれたが、この時に濟々黌の水球全国制覇のニュース映画も同時に上映され、大変な好評を博したものであった。キーパーの佐伯君(現セキスイハウス九州本部長・同取締役)をはじめ全選手の活躍が手にとるように画面にあらわれた。私の姿も出た。「勝つことの大切さ」をしみじみと教えられたひと時であった。(続く)
by swpc
| 2012-12-28 18:00

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム
by swpc
Note
濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
平成23年8月
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