水球19年(その2)
▼二度目の全国制覇
済々黌は高知には弱い。高知でのインターハイは3回あったが、その内2回は緒戦で敗れた。27年度のチームも水垣・田代両君のコンビで必ずしもそう弱いチームではなかったのだけれども1回戦で鴨沂と対戦敗退した。33年の時も同様であった。高知の水は済々黌には合わないのかもしれない。
昭和28年は水害の年であった。6月26日の白川の大水害は熊本全市の機能を全滅させた。学校は休校になるし、水球の練習どころではなかった。やっと7月末になってからの練習であったが名古屋でのインターハイでは軽く優勝した。
予選の1・2回戦と準決勝は西区天神山の児玉プールで行なわれた。立派な施設を持った大プールではあったが水温の低いのには困った。以前私は名古屋に居たこともあったので町の大体の様子はわかっていたが、木曽川から引いた水だとかいうわけで、折からの冷雨とも重なって暖国九州の選手には非常に気の毒であった。
プログラムによると最初済々黌は第1日日の9時から東京の学習院と対戦することになっていたので皆悠々と構えていたら、参加申込の学校の内東北の岩手高校とか東京の明治高校など二、三の学校が不参加となったために急遽監督会議を開き既定の組合せを改めることとなりその場で再抽選、済々黌は第1試合で鴨沂高校とぶつかるということになった。私もあわてたが選手たちも困った。前年度、高知で惨敗しているので果して勝てるかどうかわからなかった。しかし結果は前半2-2の接戦の後、田久保主将のバックシュートが見事にきまり貴重な一点を加えた。後半は0-0激戦の末結局3-2で辛勝した。後は優勝戦まで順当に勝ち進み、優勝戦でも山城に楽勝した。これが二度目の全国制覇であったが、今回は前回ほど皆が興奮することもなかった。やはり済々黌の水球部がそれだけ成長したことを示すものであった。
旅館も決してよくはなかった。私の長い監督生活の中でも「さかさくらげ」のマークの入った宿にとまったのはこの時だけであった。優勝戦の日の朝食の卵がくさっていたりいやな事もあったけれども、結局は優勝出来たのだから文句もいえなかった。
この2回目の優勝は田久保・井上両選手の力に負うところが多大であった。時には怠ける選手に鉄拳を加えてみたり、今なら問題になるような事もあったようであったが、真面目そのものの田久保主将であってみれば殴られても不平もいえず、かえってチームが強化して行った。
思うに、25年度の全国2位から26年の第1回優勝、さらに28年の第2回優勝、この2回の全国制覇を中心として済々黌水球部の基礎は一応確立したといえる。29年・30年と優勝は出来なかったけれども、確実に全国2位の座を占めた。「済々黌の水球」「水球の済々黌」として天下に名を成したのもこの5・6年間の好成績の結果であった。
この間にオリンピック水球監督としてメキシコに行った菅原君、同じくミュンンヘンに行った荒瀬(田久保)君、それにローマオリンピックに出場した宮村選手が生れた。又、済々費OBとしてはじめての国際試合第2回アジア大会に出場した古賀・田代の両選手、その他若くしてこの世を去った水球の天才飯田桂三君や渋谷・松本・田上・内田・石原・本田・河原など多数の名選手は皆この期間の人たちであった。これが済々黌水球史上第1期の黄金時代であった。(続く)

第2回全国制覇チーム(昭和28年)
済々黌は高知には弱い。高知でのインターハイは3回あったが、その内2回は緒戦で敗れた。27年度のチームも水垣・田代両君のコンビで必ずしもそう弱いチームではなかったのだけれども1回戦で鴨沂と対戦敗退した。33年の時も同様であった。高知の水は済々黌には合わないのかもしれない。
昭和28年は水害の年であった。6月26日の白川の大水害は熊本全市の機能を全滅させた。学校は休校になるし、水球の練習どころではなかった。やっと7月末になってからの練習であったが名古屋でのインターハイでは軽く優勝した。
予選の1・2回戦と準決勝は西区天神山の児玉プールで行なわれた。立派な施設を持った大プールではあったが水温の低いのには困った。以前私は名古屋に居たこともあったので町の大体の様子はわかっていたが、木曽川から引いた水だとかいうわけで、折からの冷雨とも重なって暖国九州の選手には非常に気の毒であった。
プログラムによると最初済々黌は第1日日の9時から東京の学習院と対戦することになっていたので皆悠々と構えていたら、参加申込の学校の内東北の岩手高校とか東京の明治高校など二、三の学校が不参加となったために急遽監督会議を開き既定の組合せを改めることとなりその場で再抽選、済々黌は第1試合で鴨沂高校とぶつかるということになった。私もあわてたが選手たちも困った。前年度、高知で惨敗しているので果して勝てるかどうかわからなかった。しかし結果は前半2-2の接戦の後、田久保主将のバックシュートが見事にきまり貴重な一点を加えた。後半は0-0激戦の末結局3-2で辛勝した。後は優勝戦まで順当に勝ち進み、優勝戦でも山城に楽勝した。これが二度目の全国制覇であったが、今回は前回ほど皆が興奮することもなかった。やはり済々黌の水球部がそれだけ成長したことを示すものであった。
旅館も決してよくはなかった。私の長い監督生活の中でも「さかさくらげ」のマークの入った宿にとまったのはこの時だけであった。優勝戦の日の朝食の卵がくさっていたりいやな事もあったけれども、結局は優勝出来たのだから文句もいえなかった。
この2回目の優勝は田久保・井上両選手の力に負うところが多大であった。時には怠ける選手に鉄拳を加えてみたり、今なら問題になるような事もあったようであったが、真面目そのものの田久保主将であってみれば殴られても不平もいえず、かえってチームが強化して行った。
思うに、25年度の全国2位から26年の第1回優勝、さらに28年の第2回優勝、この2回の全国制覇を中心として済々黌水球部の基礎は一応確立したといえる。29年・30年と優勝は出来なかったけれども、確実に全国2位の座を占めた。「済々黌の水球」「水球の済々黌」として天下に名を成したのもこの5・6年間の好成績の結果であった。
この間にオリンピック水球監督としてメキシコに行った菅原君、同じくミュンンヘンに行った荒瀬(田久保)君、それにローマオリンピックに出場した宮村選手が生れた。又、済々費OBとしてはじめての国際試合第2回アジア大会に出場した古賀・田代の両選手、その他若くしてこの世を去った水球の天才飯田桂三君や渋谷・松本・田上・内田・石原・本田・河原など多数の名選手は皆この期間の人たちであった。これが済々黌水球史上第1期の黄金時代であった。(続く)

第2回全国制覇チーム(昭和28年)
by swpc
| 2013-01-09 18:32

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム
by swpc
Note
濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
平成23年8月
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連絡先:
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