水球19年(その3)
▼第二期の黄金時代
昭和32年の静岡国体優勝から35年のインターハイ優勝、さらに36年のインターハイ連続優勝、この数年間が第二の黄金時代であった。
浜松国体では吉邑主将を中心に藤本・桑山兄・梅本・北岡・柴田・米村などの諸君でチームを編成した。夏のインターハイで慶応に3-3の反則敗けであったので、何とか国体では優勝をと必勝を期して浜松に向った。浜松の宿舎は市内でも一流の旅館で待遇もよく選手たちも大喜びであった。試合は慶応の不出場で、城北・山城・済々の三チームによるリーグ戦であったが、済々黌の楽勝に終った。
35年は頂度熊本国体の年であったので「絶対に勝て」という県からの至上命令もあって1ケ月という長期の東京合宿をやったものであった。強化費の関係もあり、低廉な宿舎でなければならないので、当時有斐学舎の幹事をしていられた高森良人先生に御願いして選手を有斐学舎の大広間に留めていただく事にした。食事は粗末だし、蚊は多いし、練習プールは遠いし散々であったけれども、1ケ月という長期の合宿はさすがに選手たちの実力の向上には大いに役立った。島田主将以下入江・大村・奥村・小陳・桑山弟・堀の諸君がそのメンバーであったが、インターハイでは美事に優勝した。熊本国体では残念ながら鴨沂に敗れたけれども地元国体という特殊な雰囲気の中であってみればそれも仕方のないことであった。
36年のチームは強かった。文句なしの強力チームであった。インターハイは金沢で行なわれたが水球会場は松任であったので毎日汽車で松任プールまで通った。地震はあるし、旅館の待遇は悪いし、その上金沢駅のまん前の宿舎であったために一晩中うるさくて安眠も出来ないような状態であったが、試合は楽勝であった。このチームぐらい安心してみていられるチームは今までにはなかった。済々黌の水球史上最強のチームともいえる強さであった。桑山選手を中心に入江・村山・小陳・坂本・豊永・堀の七選手で固めたこのチームにはこれという弱点もなく完璧のチームであった。矢賀監督が作りあげた強力チームの中でも最高の力を備えたチームではなかったろうか。会津若松での第16回国体には敗れたけれども、これは作為のなせる業でチームの実力とは無関係のことであった。
この第二期の黄金時代からも名選手が陸続と生れ出た。藤本(重信)・桑山弟(博克)・坂本・米原・柴田徹の五選手はそれぞれローマ・東京・メキシコのオリンピックに選手として出場、日本のために活躍した。済々黌の水球部はいよいよ日本的な存在となって高校水球界に不動の地位を占めることになったのであった。(続く)

昭和32年国体優勝チーム

昭和35年インタハイ優勝チーム

昭和36年インタハイ優勝チーム
昭和32年の静岡国体優勝から35年のインターハイ優勝、さらに36年のインターハイ連続優勝、この数年間が第二の黄金時代であった。
浜松国体では吉邑主将を中心に藤本・桑山兄・梅本・北岡・柴田・米村などの諸君でチームを編成した。夏のインターハイで慶応に3-3の反則敗けであったので、何とか国体では優勝をと必勝を期して浜松に向った。浜松の宿舎は市内でも一流の旅館で待遇もよく選手たちも大喜びであった。試合は慶応の不出場で、城北・山城・済々の三チームによるリーグ戦であったが、済々黌の楽勝に終った。
35年は頂度熊本国体の年であったので「絶対に勝て」という県からの至上命令もあって1ケ月という長期の東京合宿をやったものであった。強化費の関係もあり、低廉な宿舎でなければならないので、当時有斐学舎の幹事をしていられた高森良人先生に御願いして選手を有斐学舎の大広間に留めていただく事にした。食事は粗末だし、蚊は多いし、練習プールは遠いし散々であったけれども、1ケ月という長期の合宿はさすがに選手たちの実力の向上には大いに役立った。島田主将以下入江・大村・奥村・小陳・桑山弟・堀の諸君がそのメンバーであったが、インターハイでは美事に優勝した。熊本国体では残念ながら鴨沂に敗れたけれども地元国体という特殊な雰囲気の中であってみればそれも仕方のないことであった。
36年のチームは強かった。文句なしの強力チームであった。インターハイは金沢で行なわれたが水球会場は松任であったので毎日汽車で松任プールまで通った。地震はあるし、旅館の待遇は悪いし、その上金沢駅のまん前の宿舎であったために一晩中うるさくて安眠も出来ないような状態であったが、試合は楽勝であった。このチームぐらい安心してみていられるチームは今までにはなかった。済々黌の水球史上最強のチームともいえる強さであった。桑山選手を中心に入江・村山・小陳・坂本・豊永・堀の七選手で固めたこのチームにはこれという弱点もなく完璧のチームであった。矢賀監督が作りあげた強力チームの中でも最高の力を備えたチームではなかったろうか。会津若松での第16回国体には敗れたけれども、これは作為のなせる業でチームの実力とは無関係のことであった。
この第二期の黄金時代からも名選手が陸続と生れ出た。藤本(重信)・桑山弟(博克)・坂本・米原・柴田徹の五選手はそれぞれローマ・東京・メキシコのオリンピックに選手として出場、日本のために活躍した。済々黌の水球部はいよいよ日本的な存在となって高校水球界に不動の地位を占めることになったのであった。(続く)

昭和32年国体優勝チーム

昭和35年インタハイ優勝チーム

昭和36年インタハイ優勝チーム
by swpc
| 2013-02-16 12:59

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム
by swpc
Note
濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
平成23年8月
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