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新熊本の体力(2)

 8月7日に、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」に掲載された、済々黌水球部の歴史の2回目の記事を紹介いたします。

 済々黌水球部はインターハイで5度、国体で2度など、全国大会で通算32度の3位以内入賞を果たしている。済々黌の強さの秘けつは何だったのだろう―。平田忠彦(2004年、93歳で死去)という名伯楽に恵まれたこととともに、大学生らのOBが足繁く母校に通い、後輩たちの面倒を見たのも大きかった。
 矢賀正雄(04年、74歳で死去)もその一人だった。済々黌から立命館大に進んだ矢賀は熊本に帰って中学校教師になる。“本職”の中学での授業を終えた矢賀は自転車にまたがって母校のプールに通うのが日課だった。古ぼけた自転車のブレーキ音が“鬼コーチ”の到着を知らせると、部員たちに緊張が走った。プールサイドに陣取った矢賀はニコリともしなかったという。
 1955(昭和30)年から15年間、平田とコンビを組み、現場コーチとして腕を振るった。矢賀が力を入れたのは、踏水術から引用した巻き足泳法。頭の上にたたんだ学生服を載せ、制服をぬらさない泳法を徹底的にたたき込んだ。57(同32)年の国体初優勝を皮切りに、国体、インターハイで計5度の全国制覇に導き、9人の五輪代表を育てた。
 70(同45)年に平田から監督を引き継いだのが吉邑紀義(93年、53歳で死去)だった。57年の国体(静岡大会)初優勝で済々黌の主将を務めた。東京教育大(現筑波大)を出ていったんは埼玉県教員に。67(同42)年の地元・埼玉国体は監督として市立川口高を率い、決勝リーグで母校・濟々黌を破り優勝を飾った。3年後に熊本に帰って熊本に帰って濟々黌に赴任。恩師・平田の後を継いで監督就任、後輩たちをインターハイや国体出場に導いた。県高体連水泳専門委員長も務めた。
 「練習はきつかった。でもプールを離れれば平田先生も矢賀先生も優しかった。」と68(同43)年の福井国体優勝メンバーだった藤木俊清(63)は振り返る。「大学を出てしばらく茨城で仕事をやっていました。そしたら『うまくいってるか』と2人そろって遠路はるばる励ましに来てくれた。何かのついでだったのでしょうが感激しましたね」(藤木)
 平田の長男・和彦(68)は済々黌から早大を経て国体開催を控えていた鹿児島の社会科教員に。川内高監督として71(同46)、72年には同校をインターハイ、国体優勝に導いた。「学校でも家でも変わらず温厚な父だった。晩年は矢賀さんや吉邑さんら後輩に相次ぎ先立たれたことが相当こたえたようだった。さらに『最近はプールに卒業生が集まって来なくて寂しい』とつぶやいていました。


昭和32(1957)年、国体初優勝チーム(後列真ん中が吉邑紀義さん)

by swpc | 2014-11-15 12:52

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


by swpc

Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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