古武士とろうそく
飯田寿平さんは戦後の熊本水泳界ひいては日本の水泳界をリードされた水泳界の偉人の一人であるが、実はわが水球部の創設にも与って力があったお一人でもある。ご本人は熊中(現熊高)から早稲田に進み水球の主将として活躍された。水球部草創期の先輩方は飯田さんから直接技術指導を受けていたと聞いている。私が高校在学中は熊本県水泳協会理事長を務めておられた。日頃はあまり接することはなかったが、たまたまご自宅がわが家と近かったため、よく平田先生から預かった急ぎの文書を届けたりしたものだ。お家柄か古武士のような風格を備えておられて、練習を見に来られてもほとんど口を出されないが、日頃の行動や態度については時々厳しい指導をされた。その飯田さんの最も印象深い想い出は昭和36年(1961)の会津若松国体の時のことだ。熊本県選手団は会津若松城(鶴ヶ城)内の西澤別館というところに宿舎を構えた。大広間の座敷に選手団長の飯田さん以下全員が集まって食事をとった。大会期間中、台風に襲われた。競技も一日順延されたが、ちょうど夕食の時間に全館停電となった。真っ暗な大広間の数か所にろうそくが立てられ、その灯りの中で全員が黙々と食事をとった。食事の時に飯田さんがよく口にされたのが「黙って食え!」。お家の躾だったのか食事中のおしゃべりがことのほかお嫌いだった。あの日の夕食は、今思えば随分と不気味な光景だったにちがいないが、正座をして黙々と食事をされる飯田さんの凛としたお姿が今でも目に浮かぶ。
(柴田範房)
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by swpc
| 2015-10-09 09:59
新熊本の体力(3)
四半世紀以上にわたって〝強豪″の名を全国にとどろかせた済々黌高水球部。輝かしい歴史の中で、インターハイと国体で最後の優勝を飾った時の選手に、当時の思い出などを聞いた。
最後のインターハイ優勝は1967(昭和42)年の福井大会。田代孝士(66)はFWで出湯した。予選1回戦は田代もゴールを奪い新潟・柏崎を2-0で下し、同2回戦は東京・北野を10-0で一蹴した。決勝は岡山・関西、埼玉・川口市立、大分・臼杵とのリーグ戦に。
「どのチームも背が高く、がっしりした選手ばかり。体格、泳力ともうちが一番劣勢だった」と田代。初戦の関西戦は最終クォーターまで2-1とリードしたが、終了間際に痛恨のファウルを犯し、2-2の引き分け。第2戦ば前年の国体で苦杯をなめさせられた川口市立。ポイントゲッターの木村隆、西田英生が大活躍し4-3で勝ち、1勝1引き分けとした。
最終戦は九州のライバル。臼杵。「末弘杯、九州大会で勝っていたので心の緩みがあった」と田代が振り返る通り、常に先行を許す展開。最終クォーターで追いつき、3-3で引き分けた。1勝2引き分けながら勝ち点4で栄冠に輝いた。「矢賀(正雄)コーチから『ボールは燃える火の球だ』と教えられ、ボールを長く持つことはなかった。パスと同時にダッシュの繰り返し。体格のハンディを補う作戦だったんですね」と田代。
翌年、インターハイ連覇を目指した済々黌は九州予選敗退。同じく福井開催だった国体制覇にかけていた。2年生の浜田澄夫(63)はFWを務めた。「インターハイ予選に敗れ日大(東京)で強化合宿が行われた。10日間ほどだったが、起きている間はほとんどプールの中。血尿が出る者もいた。しこたま鍛えられた」(浜田)
迎えた本番は東京・城西を5-3、大阪・茨木を6-2で下し、予選を通過した。決勝リーグは済々黌、長崎・諌早商、臼杵、柏崎の顔ぶれ。文字通り九州決戦の様相を呈した。「長崎国体を控え、選手強化を進めていた諫早が一番手強かった。でも緊急合宿の成果もあって優勝できた」と浜田。柏崎とは引き分けたものの、臼杵を4-2、諌早商を3-2で退け頂点に立った。浜田は好アシストで何度もゴールに貢献した。
田代は法政大を経て熊本県警入り、浜田は日大を出た後、和歌山県の高校教員になり同県の水球普及・強化に情熱を燃やした。「水球で熊本の名を見なくなって久しい。母校にはこだわらない。熊本のこれからに期待したい」。2人は口をそろえた。(完)
昭和42年福井インターハイ優勝チーム
昭和43年福井国体優勝チーム
最後のインターハイ優勝は1967(昭和42)年の福井大会。田代孝士(66)はFWで出湯した。予選1回戦は田代もゴールを奪い新潟・柏崎を2-0で下し、同2回戦は東京・北野を10-0で一蹴した。決勝は岡山・関西、埼玉・川口市立、大分・臼杵とのリーグ戦に。
「どのチームも背が高く、がっしりした選手ばかり。体格、泳力ともうちが一番劣勢だった」と田代。初戦の関西戦は最終クォーターまで2-1とリードしたが、終了間際に痛恨のファウルを犯し、2-2の引き分け。第2戦ば前年の国体で苦杯をなめさせられた川口市立。ポイントゲッターの木村隆、西田英生が大活躍し4-3で勝ち、1勝1引き分けとした。
最終戦は九州のライバル。臼杵。「末弘杯、九州大会で勝っていたので心の緩みがあった」と田代が振り返る通り、常に先行を許す展開。最終クォーターで追いつき、3-3で引き分けた。1勝2引き分けながら勝ち点4で栄冠に輝いた。「矢賀(正雄)コーチから『ボールは燃える火の球だ』と教えられ、ボールを長く持つことはなかった。パスと同時にダッシュの繰り返し。体格のハンディを補う作戦だったんですね」と田代。
翌年、インターハイ連覇を目指した済々黌は九州予選敗退。同じく福井開催だった国体制覇にかけていた。2年生の浜田澄夫(63)はFWを務めた。「インターハイ予選に敗れ日大(東京)で強化合宿が行われた。10日間ほどだったが、起きている間はほとんどプールの中。血尿が出る者もいた。しこたま鍛えられた」(浜田)
迎えた本番は東京・城西を5-3、大阪・茨木を6-2で下し、予選を通過した。決勝リーグは済々黌、長崎・諌早商、臼杵、柏崎の顔ぶれ。文字通り九州決戦の様相を呈した。「長崎国体を控え、選手強化を進めていた諫早が一番手強かった。でも緊急合宿の成果もあって優勝できた」と浜田。柏崎とは引き分けたものの、臼杵を4-2、諌早商を3-2で退け頂点に立った。浜田は好アシストで何度もゴールに貢献した。
田代は法政大を経て熊本県警入り、浜田は日大を出た後、和歌山県の高校教員になり同県の水球普及・強化に情熱を燃やした。「水球で熊本の名を見なくなって久しい。母校にはこだわらない。熊本のこれからに期待したい」。2人は口をそろえた。(完)
昭和42年福井インターハイ優勝チーム
昭和43年福井国体優勝チーム
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| 2014-12-10 18:06
新熊本の体力(2)
8月7日に、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」に掲載された、済々黌水球部の歴史の2回目の記事を紹介いたします。
済々黌水球部はインターハイで5度、国体で2度など、全国大会で通算32度の3位以内入賞を果たしている。済々黌の強さの秘けつは何だったのだろう―。平田忠彦(2004年、93歳で死去)という名伯楽に恵まれたこととともに、大学生らのOBが足繁く母校に通い、後輩たちの面倒を見たのも大きかった。
矢賀正雄(04年、74歳で死去)もその一人だった。済々黌から立命館大に進んだ矢賀は熊本に帰って中学校教師になる。“本職”の中学での授業を終えた矢賀は自転車にまたがって母校のプールに通うのが日課だった。古ぼけた自転車のブレーキ音が“鬼コーチ”の到着を知らせると、部員たちに緊張が走った。プールサイドに陣取った矢賀はニコリともしなかったという。
1955(昭和30)年から15年間、平田とコンビを組み、現場コーチとして腕を振るった。矢賀が力を入れたのは、踏水術から引用した巻き足泳法。頭の上にたたんだ学生服を載せ、制服をぬらさない泳法を徹底的にたたき込んだ。57(同32)年の国体初優勝を皮切りに、国体、インターハイで計5度の全国制覇に導き、9人の五輪代表を育てた。
70(同45)年に平田から監督を引き継いだのが吉邑紀義(93年、53歳で死去)だった。57年の国体(静岡大会)初優勝で済々黌の主将を務めた。東京教育大(現筑波大)を出ていったんは埼玉県教員に。67(同42)年の地元・埼玉国体は監督として市立川口高を率い、決勝リーグで母校・濟々黌を破り優勝を飾った。3年後に熊本に帰って熊本に帰って濟々黌に赴任。恩師・平田の後を継いで監督就任、後輩たちをインターハイや国体出場に導いた。県高体連水泳専門委員長も務めた。
「練習はきつかった。でもプールを離れれば平田先生も矢賀先生も優しかった。」と68(同43)年の福井国体優勝メンバーだった藤木俊清(63)は振り返る。「大学を出てしばらく茨城で仕事をやっていました。そしたら『うまくいってるか』と2人そろって遠路はるばる励ましに来てくれた。何かのついでだったのでしょうが感激しましたね」(藤木)
平田の長男・和彦(68)は済々黌から早大を経て国体開催を控えていた鹿児島の社会科教員に。川内高監督として71(同46)、72年には同校をインターハイ、国体優勝に導いた。「学校でも家でも変わらず温厚な父だった。晩年は矢賀さんや吉邑さんら後輩に相次ぎ先立たれたことが相当こたえたようだった。さらに『最近はプールに卒業生が集まって来なくて寂しい』とつぶやいていました。
昭和32(1957)年、国体初優勝チーム(後列真ん中が吉邑紀義さん)
済々黌水球部はインターハイで5度、国体で2度など、全国大会で通算32度の3位以内入賞を果たしている。済々黌の強さの秘けつは何だったのだろう―。平田忠彦(2004年、93歳で死去)という名伯楽に恵まれたこととともに、大学生らのOBが足繁く母校に通い、後輩たちの面倒を見たのも大きかった。
矢賀正雄(04年、74歳で死去)もその一人だった。済々黌から立命館大に進んだ矢賀は熊本に帰って中学校教師になる。“本職”の中学での授業を終えた矢賀は自転車にまたがって母校のプールに通うのが日課だった。古ぼけた自転車のブレーキ音が“鬼コーチ”の到着を知らせると、部員たちに緊張が走った。プールサイドに陣取った矢賀はニコリともしなかったという。
1955(昭和30)年から15年間、平田とコンビを組み、現場コーチとして腕を振るった。矢賀が力を入れたのは、踏水術から引用した巻き足泳法。頭の上にたたんだ学生服を載せ、制服をぬらさない泳法を徹底的にたたき込んだ。57(同32)年の国体初優勝を皮切りに、国体、インターハイで計5度の全国制覇に導き、9人の五輪代表を育てた。
70(同45)年に平田から監督を引き継いだのが吉邑紀義(93年、53歳で死去)だった。57年の国体(静岡大会)初優勝で済々黌の主将を務めた。東京教育大(現筑波大)を出ていったんは埼玉県教員に。67(同42)年の地元・埼玉国体は監督として市立川口高を率い、決勝リーグで母校・濟々黌を破り優勝を飾った。3年後に熊本に帰って熊本に帰って濟々黌に赴任。恩師・平田の後を継いで監督就任、後輩たちをインターハイや国体出場に導いた。県高体連水泳専門委員長も務めた。
「練習はきつかった。でもプールを離れれば平田先生も矢賀先生も優しかった。」と68(同43)年の福井国体優勝メンバーだった藤木俊清(63)は振り返る。「大学を出てしばらく茨城で仕事をやっていました。そしたら『うまくいってるか』と2人そろって遠路はるばる励ましに来てくれた。何かのついでだったのでしょうが感激しましたね」(藤木)
平田の長男・和彦(68)は済々黌から早大を経て国体開催を控えていた鹿児島の社会科教員に。川内高監督として71(同46)、72年には同校をインターハイ、国体優勝に導いた。「学校でも家でも変わらず温厚な父だった。晩年は矢賀さんや吉邑さんら後輩に相次ぎ先立たれたことが相当こたえたようだった。さらに『最近はプールに卒業生が集まって来なくて寂しい』とつぶやいていました。
昭和32(1957)年、国体初優勝チーム(後列真ん中が吉邑紀義さん)
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by swpc
| 2014-11-15 12:52
新熊本の体力(1)
8月6日、7日および10日の3回にわたり、熊日新聞のスポーツコラム「新熊本の体力」の中で、済々黌水球部の歴史が紹介されました。50年前に連載された「熊本の体力」の新シリーズですが、前回掲載した50年前の記事と比較しながらお読みください。
熊本に水球がお目見えしたのは1946(昭和21)年。県水泳協会の発足を記念し、熊本・福岡対抗水上競技大会の公開競技として行われたのは始まりだ。同年秋には五高、熊中(現熊本高)、中学済々黌(旧制)などから5チームが出場し、第1回県選手権が開かれている。熊中、済々黌に水球部がつくられたが、唯一残ったのが済々黌だった。
新制高校となった済々黌は、48(同23)年から全国高校水上大会(現在のインターハイ)に出場する。水球は素人の教師が部長となり、県協会の経験者らが指導、初陣でいきなり準優勝した。49年3位、50年準優勝と好成績が続いた。しかし、部長担当の教師が毎年入れ替わり、ついには部長不在。さらに、学校も遠征費を出し渋るなど水球部は存続の危機に見舞われた。
そんなとき、済々黌にやってきたのが平田だった。前任の教師に「お前たちの力では全国優勝はできん」と断られた生徒たちは困り果てた。「平田先生は昔陸上ばしとらしたてよ。水球は知らっさんでよか、頼んでみゅう」と、来たばかりの平田に白羽の矢を立てた。翌51(同26)年春、平田は国語の教べんをとるかたわら、水球部長に就任した。
平田は熊中から東洋大に進み漢文を専攻した。熊中時代は陸上部で、東洋大4年生で箱根駅伝往路の“花の2区”を走っている。大学を出て、宮崎高女を皮切りに埼玉・浦和高、愛知・名古屋幼年学校から熊本に帰って大津高で教壇に立ち、50(同25)年済々黌に赴任した。以後、定年を迎えるまで済々黌を離れることはなかった。
「やれる者はどこまでもやり抜け。力がない者はやれる限りやれ。やれたシコがああたが人生タイ」。平田が亡くなった時、教え子の菅原平(52年卒、メキシコ五輪水球コーチ)が熊日に寄せた追悼文の一節で、平田が勉学と部活の両立に悩む教え子に掛けた言葉だ。「辛抱強く待ち、生徒たちのやる気を引き出す」という平田の指導法をよく表している。
平田の“魔法”にかかった部員たちは名選手に生まれ変わる。1年目、51年のインターハイで東京の慶応を7-5で下し念願の全国制覇。53(同28)年には京都・山城を退けて2度目の優勝。快進撃が始まった。
※写真は平田忠彦部長(上)、菅原平(下)
熊本に水球がお目見えしたのは1946(昭和21)年。県水泳協会の発足を記念し、熊本・福岡対抗水上競技大会の公開競技として行われたのは始まりだ。同年秋には五高、熊中(現熊本高)、中学済々黌(旧制)などから5チームが出場し、第1回県選手権が開かれている。熊中、済々黌に水球部がつくられたが、唯一残ったのが済々黌だった。
新制高校となった済々黌は、48(同23)年から全国高校水上大会(現在のインターハイ)に出場する。水球は素人の教師が部長となり、県協会の経験者らが指導、初陣でいきなり準優勝した。49年3位、50年準優勝と好成績が続いた。しかし、部長担当の教師が毎年入れ替わり、ついには部長不在。さらに、学校も遠征費を出し渋るなど水球部は存続の危機に見舞われた。
そんなとき、済々黌にやってきたのが平田だった。前任の教師に「お前たちの力では全国優勝はできん」と断られた生徒たちは困り果てた。「平田先生は昔陸上ばしとらしたてよ。水球は知らっさんでよか、頼んでみゅう」と、来たばかりの平田に白羽の矢を立てた。翌51(同26)年春、平田は国語の教べんをとるかたわら、水球部長に就任した。
平田は熊中から東洋大に進み漢文を専攻した。熊中時代は陸上部で、東洋大4年生で箱根駅伝往路の“花の2区”を走っている。大学を出て、宮崎高女を皮切りに埼玉・浦和高、愛知・名古屋幼年学校から熊本に帰って大津高で教壇に立ち、50(同25)年済々黌に赴任した。以後、定年を迎えるまで済々黌を離れることはなかった。
「やれる者はどこまでもやり抜け。力がない者はやれる限りやれ。やれたシコがああたが人生タイ」。平田が亡くなった時、教え子の菅原平(52年卒、メキシコ五輪水球コーチ)が熊日に寄せた追悼文の一節で、平田が勉学と部活の両立に悩む教え子に掛けた言葉だ。「辛抱強く待ち、生徒たちのやる気を引き出す」という平田の指導法をよく表している。
平田の“魔法”にかかった部員たちは名選手に生まれ変わる。1年目、51年のインターハイで東京の慶応を7-5で下し念願の全国制覇。53(同28)年には京都・山城を退けて2度目の優勝。快進撃が始まった。
※写真は平田忠彦部長(上)、菅原平(下)
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by swpc
| 2014-10-16 18:57
ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム
by swpc
Note
濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com
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連絡先:
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