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ジョルジ・カルパティのこと。

 再びやってくる東京オリンピック。どうしても1964年の東京オリンピックのことを想い出してしまう。東京1964 の水球はハンガリーチームを抜きにしては語れない。前年のプレオリンピックにもやって来ていたので余計印象が強かったのだが、前評判通り優勝した。そのハンガリーチームのエースがカルパティだった。当時29才でおそらく現役選手としての最晩年だったと思う。このユダヤ系ハンガリー人の特筆すべきは、身長なんと167cmで日本代表の選手たちより小さかったことである。しかし、その泳ぎのスピードとボールテクニックの素晴らしさは目を見張るものがあった。大会前の東京体育館での公開練習やテストマッチを見るために多くの大学生・高校生が日参したものだが、日本人にとって最も参考になる選手であったことは間違いない。私が個人的に特に素晴らしいと思ったのはミドルシュートのスローイング技術で、真似したいと思って練習に励んだものだがなかなか難しかった。
 ハンガリーチームは大会本番の決勝リーグで強豪ユーゴスラビアに苦戦しながら、彼の大活躍により引き分けに持ち込んだことが結局優勝につながった。
 スポーツ・サイトの紹介記事を引用して補足してみると

ジョルジ・カルパティは、アウトサイド・フォワードとして、その泳ぎのスピードを活かしていた。全盛期には、世界で最も泳ぎの早い水球選手といわれていた。17歳の時に1952年のヘルシンキ・オリンピックで最初の金メダルを獲得し、続いて1956年にメルボルン・オリンピックで二つ目の金メダル、1960年のローマ・オリンピックでは銅メダルに終わったものの、次の1964年東京オリンピックで三個目の金メダルを獲得した。その他、1954、1956および1962年にはヨーロッパ選手権で優勝したハンガリーチームのメンバーでもあった。現役を引退した後は1976年のモントリオール・オリンピックの金メダルなど数多くの世界タイトルを獲ったハンガリーチームのコーチも務めた。国際水泳殿堂入りも果たしている。
柴田範房

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# by swpc | 2014-01-23 17:34

熊日社会賞の受賞!(昭和38年)

 済々黌水球部は昭和38年に「熊日社会賞」を受賞した。これは部の歴史上、特筆すべき栄誉であり、後世まで語り継がれるべき出来事でもあった。平田忠彦先生の「九州高等学校 水球三十年史」の中から引用させていただき、この受賞を振り返ってみました。
(柴田)


 この年は済々黌にとっては誠に記念すべき年であった。それは熊本の地元紙である熊本日日新聞社の社会文化賞を受賞したことであった。これは熊本のスポーツ賞としては最高のものであっただけに皆のよろこびも一入であった。当時熊本の第二高校の校長であった広永政太郎氏の文で、熊日紙の夕刊を飾った文を掲載して当時の思い出としたい。

済々黌水球部の受賞
 済々黌水球部が、「日本水球の向上と選手育成に対する貢献」 という功績で、このたび熊日社会賞を受けたことは、まことに特筆すべき大快事であった。
 この社会賞受賞は、学校関係の団体として、実はこれが初めてであるが、高校スポーツ界の栄誉というよりも、その真価が社会的にも堂々と評価されたわけで、その教育的意義もまことに大きいといわねばならない。
 すばらしく、見上げるほどのりっばさだと思うのは、これが実に戦後になって初めて練りあげられた、新しいしかも根強い伝統だからである。あの悪条件にみちた終戦の翌年夏の発足以来ここに十七年、地方的な幾多のハンディをもちながら、全国征覇五回、未弘杯大会優勝連続十四回の快記録はまさに驚異であり、郷土の誇りともなった。さらには幾多のオリンピック選手を世に送り、またアジア大会など多くの国際試合にも出るほどの日本の代表選手を年ごとに産み出す母体となったことを合わせ考えるとき、この水球部の貢献は学校スポーツとして内容的にみて、断然他を遠く引き離しているのである。受賞に当たり、ここまで育て上げられた学校当局の理解と協力もさることながら、平田部長、矢賀先輩コーチに心から敬意を表したい。また、部の結成当初より絶えず指導と激励を続けられた県水協の古荘、飯田両氏他多数の方々の陰の力も忘れてはならないと思う。
 ある種目で全国征覇を遂げた例は県下でも珍しくはないし、高体連でもその年ごとに表彰するのであるが、これほど長く息の続いた種目は他に見当たらない。特筆大書すべきことながら、特別褒賞の規定もないまま今日に及んだしだいであった。まさに熊本県高校スポーツ界のオベリスクであろう。八十年の伝統をもつ高校が、この新しい種目にも、ゆるがぬ伝統として固め上げた事実は興味と示唆に富むことである。
 練習試合の相手もなく「水球の済々」と全国的に名をあげ得た事実の底には、部員の心の結束、地味なたゆまぬ努力と忍苦の歴史がひそんでおり、先輩、後輩の血の通った連帯感の強じんさが大きな基底となっていることに、深く思いを沈めるべきであると思う。(広永政太郎)

▼受賞年度のチームメンバー
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# by swpc | 2013-12-25 16:15

再び東京オリンピックがやってくる・・・

 7年後に再び東京オリンピックが開催されることが決まった。今から51年前、2年後に東京オリンピックを控えたある日、西日本新聞に次のような記事が掲載された。この記事を読んでいると、日本の水球界の構図が大きく変化したこと、その一方で世界の水球における日本の地位は少しも上がらず、むしろ下がり気味であることをあらためて思い知らされる。はたして2回目の東京オリンピックはこんな状況を打破するきっかけとなるのだろうか。
(柴田範房)


 水連内部で最も影が薄いのが水球だ。二十四年ぶりにローマ・オリンピックのヒノキ舞台に出た日本水球はついに一勝もあげることができず、予選リーグで失格している。もちろん長い球歴をもつ欧米諸国との中で日本水球は当然といっていいほどの力の差かも知れないが、水連ではこの惨敗ぶりから東京大会は細々と六位入賞をめざして選手強化対策に真剣に取り組みはじめた。そのホコ先を向けられるのが、まず高校水球界だ。京都の鴨沂高校、熊本の済々黌。大げさにいえば、この両校は日本の高校水球を二分する名門だ。いってみれば、現在日本水球界の母体を形成しているといっても過言ではあるまい。なかでも九州随一の名門、肥後の済々黌の存在は貴重だ。
 肥後の空にくっきり浮かぶ熊本城を目前にあおぐ済々黌は創立八十年。輝かしい歴史と伝統の刻みあとが柱一本、一本にさえ感じられる。校門を通って校舎のすぐ右手に古びたプールがある。オフシーズンのいまは、プールの水面も静かな休息を保っている。済々黌水球部が誕生したのは終戦後の昭和二十一年、その後幾多の名選手がこのプールから生まれたのだ。「古いプールですが、いろいろと思い出がありますね」と十二年間水球一筋に生きてきた平田水球部長は語る。昭和二十九年、第二回アジア大会には名キーパーとうたわれた古賀選手(早大)と田代選手(早大)の二人が初めて済々黌出身として全国に名を連ねた。翌三十年、香港遠征水球チームの主力水垣、田久保、井上、宮村、内田の日大勢はすべて済々黌OBで固めた。このころから〝水球の済々黌〟は文字通り日本水球界の焦点になってきた。三十二、三十三年のパリの国際学生大会、第三回アジア大会と済々黌OBの活躍はめざましく、ローマ・オリンピックには宮村(日大OB)藤本(日大)柴田(日大) の三人を送っている。そして昨年藤本、柴田が国際学生大会の選抜メンバーに加わった。
 しかし名門済々黌を語るにはなんといっても過去の輝かしい記録を忘れてはなるまい。高校水球界の二大タイトルといわれる日本高校選手権、国体夏季大会では昨年の全国制覇で通算四回準優勝五回、国体は昨年強敵鴨沂高に惜敗してタイトル独占はできなかったが、優勝一回、準優勝五回の金字塔を築いている。さらに末弘杯高校水球では十三年連続優勝と済々黌の独壇場だ。現在、水連が大学、高校四十人のオリンピック候補選手をあげているが、この中に済々黌水球部で育った選手が九人いる。なかでも全国四名の高校生の候補選手のうち、済々黌の村山憲三選手は注目されている。一㍍七五、七三キロの体格は理想的な選手だ。テクニックもスプリントのよくきいた泳ぎも高校生ばなれをしたうまさをもっている。
 「村山君は高校に入って初めてボールを握ったんだが、素質は十分ですね。いま高校界のNO1ではないんですか。テクニックはずば抜けてうまい。オリンピック選手には絶対になりますよ」と同部長は村山選手の大成に太鼓判を押している。この村山選手のほか、オリンピックの候補選手にはならなかったが、高校界のキーパーでピカ一といわれる入江、大型ではないが典型的なスプリンター桑山、来シーズン主力選手の抜けたあとチームのカナメになる堀、坂本、豊永は将来楽しめる選手。
 小堀流踏水術は〝水球済々黌〟の極意という。水球はまず体を浮かすために足の使い方が基礎になるが、これにはバタ足、巻き足の二つの方法がある。巻き足はいまも肥後に伝わる小堀流踏水術に通ずるわけだ。
 済々黌水球部の伝統を一口にいえば、猛練習以外になにもない。これがすべてだ。だからといってスパルタ教育ではない。いやむしろ部員が過去の輝かしい伝統を自覚、猛練習を当然なものとして受け取っている。そしてこの空気の中から名選手が育っていったわけだ。
 「選手は一年中休みなしです。シーズンオフになれば陸上トレーニングで体をつくるし、シーズンのフタがあけば毎日三時から四、五時間の練習です。昨年は十一月下旬まで水に入っていました。ことしは早々阿蘇で強化合宿ですよ。練習で一番困るのは、九州に格好の相手がいないことですね。だから夏休みは東京で毎年、大学生相手の合宿です」と同部長はいう。また同水球部の矢賀コーチは「練習はきついのがあたりまえです。私は基礎が第一だと思う。だから済々黌の水球は基礎訓練といっていい。高度の技術は大学にまかせる。だからどんな技術でも受け入れられるだけの基礎が大事だ」と言葉を加えている。日本水球界の底辺をささえる済々黌水球部は大きく脈動している。

▼済々黌水球最強の年、昭和36年の3年生(村山・入江・小陳・桑山と平田部長)
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# by swpc | 2013-11-28 20:58

懐かし映像(矢賀さんの激励会)

 今回は村山憲三さんからご提供いただいたDVD映像の中から、下の映像をご紹介します。
 これは平成14年(2002)4月11日に、東京の六本木にあるレストラン(元水球日本代表FW清水洋二さんが経営するお店)で行われた矢賀正雄さんの激励会の模様です。矢賀さんの闘病生活を経ての平癒と再起を祈って水球仲間が集まりました。平田先生ご夫妻や済々黌OBはもちろんのこと、かつての宿敵・鴨沂高校の元監督川井千仭先生を始め、竹内和也さん、次也さん兄弟など珍しい顔が揃いました。
(柴田範房)



# by swpc | 2013-10-16 21:19

第28回国体(千葉・若潮国体)の記録

 村山憲三さんから送っていただいたDVDの中に収められた映像の中に、まだご紹介できていないものがいくつかある。その中から今回は昭和48年(1973)の千葉国体の映像をご紹介したい。
 この大会の概要については平田忠彦先生の「日本高等学校水球三十年史」から引用したい。

 「若潮国体」と銘うった第28回国体夏季水泳は9月9日から12日まで県都千葉市の総合運動場プール(競泳)と同じく千葉市の高洲市民プール(水球)とで行われた。競泳会場となった総合運動場は市の東端5キロの地点にあり、43万平米という広大な敷地の中に野球・陸上・サッカー・庭球・プールなどの競技施設の他に、最新の設備を誇る大体育館や合宿所なども完備し、充実した運動公園であった。
 一方高洲プールも稲毛海岸の埋立地の一角、今海洋公民館として皆に親しまれている元巡視船「こじま」のすぐ側にあり、やがてはマンモス遊園地・海洋公園の中心となる予定のプールだそうで立派なものであった。千葉は東京に近く、所謂首都圏国体と呼ばれ、市民の関心が薄いといわれていたが、結構観客も多く、まあまあの国体であった。
 水球競技は、群馬・鹿児島・岡山・千葉の四県が決勝リーグに進出、優勝を争ったが、地元千葉がやや、ぬきんでている他は、すべて同じ程度の実力のチームで、甲乙つけがたかったが、結果は千葉が3戦全勝で優勝、他は得点失点の率によって順位が決まった。2位鹿児島、3位群馬、4位岡山であった。

 平田先生のこの文には熊本については触れていないが、残念ながら予選トーナメント1回戦で広島に5-6で敗退している。映像には1回戦の熊本対広島の模様や、応援に駆けつけた諸先輩、そして皇太子殿下(現天皇陛下)ご夫妻のご臨席の様子が写っている。

 この大会は全員済々黌のチームでメンバーは次のとおり。
 【監督】吉邑紀義
 【選手】芹川慎介(2)、宮崎祐吉(2)、本島尚(3)、下田龍生(1)、下田昌二(3)、本永健次(2)、植野清也(2)、興侶克己(1)、千馬伸男(1) 

(柴田範房)
    


# by swpc | 2013-09-24 09:01

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


by swpc

Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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