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オリンピックの華 - ローマ大会(1960) -

 済々黌水球部出身のオリンピアンたちを、大会当時の新聞記事からご紹介していきたい。第1回は1960年に行われたローマオリンピックに出場した三選手。

▽宮村元信(LF)
 昭和11年12月1日生まれ23歳。身長1㍍72、体重65キロ、31年日大香港遠征メンバー、32年パリ国際学生大会、33年第3回アジア大会出場。濟々黌30年率。日大出。新光商事KK。菊池市戸崎字赤星出身。
▽藤本重信(RF)
 昭和14年9月3日生まれ20歳。身長1㍍75、体重68キロ。濟々黌33年卒。日大政経学部3年。熊本市辛島町出身。
▽柴田徹(LB)
 昭和15年10月30日生まれ19歳。身長1㍍82、体重78キロ。濟々黌34年卒。日大法学部2年。熊本市川尻町田町出身。
◇水球11人の選手のなかに三人の熊本出身が選ばれた。宮村、藤本、柴田の三選手は水球でトップレベルを堅持している濟々黌出身の三羽烏。水球は戦後はじめてのオリンピック参加だ。それに絶対の体力が要求される種目だけに大会での成績となると本部もはっきりした予想はたてられないようす。
◇菊池中学のころは野球をやっていたという宮村選手は濟々黌に入って水球に打ちこんだ。28年、2年生のときインターハイで全国制覇、日大に進んでは日本選手権、パリ国際学生大会の出場など大試合の経験も豊富。33年の第3回アジア大会でも力をフルに発揮して優勝した。こんども日本チームの主力フォワードとして抜きんでたプレーをみせるだろう。“職場の都合もあるし、オリンピックを最後に第一線から身をひくつもりですが、後輩のめんどうはみたいと思っている。藤本、柴田両君は若いし次の東京大会でも大いに期待できますよ”― こういう宮村君は最後のヒノキ舞台をいかに活躍するか。
◇同じくフォワードとして宮村君とうまいコンビネーション攻撃をみせる藤本君も濟々黌の2年からレギュラーとして活躍、32年の静岡国体で優勝の経験をもっている。日本チームでただ一人の左利きなのが注目され、左右をうまくつかって相手のバックス守備を乱すのに大きを威力をもっている。“ローマでひと泳ぎしてきます”とまるで隣り村へでも行くような気軽さは、国際ゲーム初参加とはいえのびのびしたプレーができそう。
◇“まったく思いがけなかった。選ばれて面くらいました”と柴田君。濟々黌の1、2年はゴールキーパー、32年に藤本君らといっしょに国体優勝を味わい、3年からバックスに回った。むろん海外遠征ははじめて。“両先輩がいるので心強い。勉強のつもりで頑張ってきます”若さとファイト、そして日本チームきっての恵まれたスタミナは大柄な外人選手と対等にワタリ合えるだろうと期待される選手。“濟々黌のわれわれトリオが攻守の中心になってやってきますよ”三選手ともさかんな意気をみせていた。
 平田先生の手元にはローマに遠征した教え子たちから、さっそく三枚の絵はがきが届いている。「今日はイタリア、あすは南アフリカと試合が続きます。調子は上々バリバリやります」とかいてあるのが最年長の宮村選手。
「イタリアに散々痛めつけられました。もっと泳ぎ込まなければダメですね。自信はあります。」 これは藤本選手。
「飛行機の旅は快適です。ただいま北極点を通過」としごくのんびりかまえているのは一ばん若い柴田選手だ。
 平田さんは昭和26年濟々黌水球部の部長になっていらい10年、この間40人あまりの国際級のプレーヤーを育てあげた。「オリンピック選手になった三人はこれまでの濟々黌出身者の中でも特に優秀な選手です。当然選ばれるべくして選ばれた選手でしょうね。それに三人三様の持ち味があります。宮村君は努力型、表面はおとなしいがすばらしいファイトの持ち主で、大学を出て3年にもなるのに現役以上に泳ぎまくります。藤本君は水球のために生まれて来たような男です。シュートは左も右もきく日本チームには貴重な存在です。柴田は1㍍80はあろうという大男、ファイトのある国際試合むきの選手です」ローマ大会の開幕が待ち遠しくてならないといった表情の平田さん。
 「宮村君は年令的にみてもこれが最後のチャンスです。だからもう悔いのをい試合をしてくれればそれでいい。藤本、柴田両君にはこれから日本の水球界を引っ張って行ってもらわなければならない。うんと各国の事情をみてこんごに役立ててほしいですね。
(昭和35年8月熊本日日新聞)



# by swpc | 2012-02-25 19:24

俊秀群像(3)

 静岡国体優勝の選手たちの中にも又すぐれた人材がいた。
 吉邑紀義君、国体初優勝チームの主将である。東京教育大卒後埼玉県に奉職、埼玉国体で川口高校を優勝させた。筆者の退任時に後任として濟々黌に招く。以来濟々黌の監督として活躍している。
 藤本重信君(別項)
 他に梅本秀一君、北岡祥靖君、桑山隆弘君がいる。梅本君は温厚な紳士、北岡君は一昨年帰熊、東京海上熊本店に勤務中、桑山君は日大でも水球選手として活躍した。日大卒後は製薬会社に勤務していた。有名な博克君の長兄。
 当時の二年生としては、米村彰芳君、柴田徹君がいる。米村君は先年帰熊、人吉市でゴルフ場の副支配人、奥様は九州女学院短大の教授で名ピアニスト。
 一年生としては、米原邦夫・坂本和義・宮川弘之・宮本孝典の諸君がいた。坂本君は久留米医大卒業後引つづき大学に残り、現在は病理学教室の講師。医学博士。宮本孝典君も東京で頑張っている。宮川君は法大の水球部の基礎を築いた人。熊本市在住。
 熊本国体の前後になると選手の層は一層厚みをまし多士済々。
 島田輝昭君、第三回インターハイ優勝時の主将、一ケ月の東京合宿も厳しかったであろうし、また地元熊本での国体も大変だったろうと思うが、ほんとによくやってくれた。現在広島県竹原市にあって中尾醸造に勤務中、頭脳明噺なサラリーマン。
 大村健治君、奥村省吾君も健在、奥村君は家業を継いで浴場を経営中。
 次の学年になると村山憲三君、入江昭雄君、桑山博克君(別項)小陳修臣君がいる。濟々黌がインターハイで二連勝した時の主力選手たちである。
 村山憲三君は濟々黌の多くの選手たちの中で最も体力的にすぐれていた選手で、その泳力の強さは無類であった。GKとして又バックスとして活躍した。日大卒後東京でサラリーマン生活を続けていたが昨年より神戸でスイミングクラブを指導中。
 入江君は中大卒業後簡易保険事業団に入っているが母校を思う念に燃え、余暇があれば母校にも顔を出す。ファイトマンである。小陳君も同様、会津若松の国体では大活躍をした選手である。
 当時の二年生には堀緑良(法大卒)坂本征也(別項)豊永修介(中大卒)松田康(法大卒)の諸君がいる。堀君は人も知る傑物。小事に拘泥せず、わが道をゆく人、先年熊本に帰り会社を経営、豪酒家。
 豊永君は久留米にあって会社を経営、いつも熊本にやって来て後輩の指導をしている。OB選手をひきいて前後二回関西選手権に遠征した。
 松田君も千葉にいるがOB会にはいつもかけつけてくる、好紳士である。
 これ以後になると、深迫章、柴田範房、下村佑次郎、平田和彦、福永冠治、藤本勇夫と続き、更に藤本重彦、徳永慶八、村上和夫、河田正道、中島清志、西本賢一、野中史之の諸君となるわけであるが、柴田君は防府BS、下村君は熊本で自営、愚息和彦は韓国・ハワイに遠征、現在は福岡積和、福永君は和歌山新宮商業の水球監督。藤本君は人吉市で自営。藤本重彦君はメキシコのプレオリンピックや東京ユニバーシアードに出場、現在東京材料に勤務中。徳永君は中大水球部の中興の主、在東京。村上君は熊本ヤクルト、往年のファイトいまだおとろえず。河田、西本、野中の諸君も健在。
 これ以後にもインターハイ、国体と二度の優勝があり、それぞれ一騎当千のつわものたちがいるわけであるが、まだまだ春秋に富む若い人たちなので、今後の一層の活躍を記念しながら一応俊秀群像篇を終わることとする。
(次回の「オリンピックの華」へ続く)

昭和32年優勝チーム

# by swpc | 2012-02-14 15:42

俊秀群像(2)

▼勝者の面影
 日本高校五回、国体二回の優勝者の中から思い出の人々をぬき出してみよう。
 佐伯卓三君、第一回インターハイ優勝チームの主将、ゴールキーパー。旺盛なファイトと強い意志と明晰な頭脳の持ち主、シーズン中は、夜の七時八時まで水球の練習をしても家に帰ってからは又猛烈に夜明けまで勉強した。当時の進適では済々黌一の最高点をマークした人でもある。明朗、快達で頼りになる人物、神戸商大卒現在セキスイハウス取締役兼九州営業部長。
 菅原平君(別項)
 大島淳之助君、在校中はバックスとして活躍した。日大進学後も選手や総務として日大水球部の基礎を築いた。現在小倉のNCRに勤務中。
 竜川武弘君、済々黌から熊大に進学、熊大二年の時から済々黌のコーチとなり二十八年の第二回目のインターハイ優勝をなしとげた。済々黌時代は名フォワード、菅原君とのコンビで優勝の原動力となった。現在鹿本地方事務所の指導主事。
 坂田定苗君、第一回優勝チームの名マネージャー。三十年の済々黌の水球史の中でも彼に勝るマネージャーはいない。万事に気がつくし、世話はとどくし、初優勝の陰には彼のかくれた苦心がものを言っている。現在西鉄グランドホテルの旅客課長。
 河北文雄君、熊本産交勤務、同じく第一回優勝チームのメンバー、時折り母校をたずねては後輩を激励している。
 田代晃一君、二年生として水垣憲二君 (在甲府市)と共にチームに加わり健闘した、後早大に入学、アジア大会候補となったが病のため辞退、現在日本航空に勤務中。
 田久保徹君(別項)
 井上融君、第二回インターハイ優勝時の立役者、攻守に美技をみせた。日大卒、現在前橋SSのヘッドコーチ。
 前田隆啓君、第二回優勝チームにおいて、井上君と共に守備の要として活躍、現在熊本にあって自営。
 宮村元信君(別項)
 澁谷竜志君、第二回優勝チームのゴールキーパー。済々黌在学中ずっとGKとして活躍した。東京水産大卒、現在東京にあって自営、後輩を思う念厚く、済泳会の世話役。
 故飯田桂三君、若くしてこの世を去ったが全く水球のために生まれて来たような人で水球の天才、済々黌在学中も、日大でも、又日大監督としても常に先頭に立って活躍した。パリのユニバーシアード大会に出場、当然ローマ五輪にも参加の予定であったが、不幸病を得て夭折した。高木・飯田杯としてその名を残している。君がもし、今に生存するならば、日本の水球界も一段の進歩をとげていたろうとさえ思われるくらいで、惜しい人物であった。
 田上新一郎君、済々黌在校中、水球選手として活躍、現在日動火災海上の熊本支社長、温厚を紳士。
 松本巍君(旧姓福村)宮村・澁谷君と同様、日本高校をはじめ、第一回国体参加の天理大会に出場した。現在は建築士として自営、済泳会の名会計。余暇があればプールで後輩の世話をしている。
 内田啓一君、優勝した名古屋インターハイに一年生として参加、日大歯科入学後も水球をやめず日大主将、鋭い泳ぎと独得のシュートは定評があった。医学博士、西武診療所勤務、東京済泳会の幹事。
 なお同じ頃、女性選手としてインターハイに出場した人に福田富貴子(現姓津守)背泳、山本政子(現姓三井所)乎泳の二人がいる。水球オンリーの済々黌にあって自己の泳ぎを生かす事は容易ではなかったと思うが、それを立派になしとげた人たちである。勿論水球の裏方さんとしても活躍した。
 他に河原武夫君(日本航空)本田忠孝君(墨水産業福岡)加来敏祐君、槌田征治君(航空自衛隊土浦)などもいた。本田君は済々黌で主将、日大でも主将をつとめた。槌田君は防衛大卒、現在航空自衛隊幹部として活躍中。
 石原節生君、近来稀なファイトマンで泳ぎも強く、彼がそのまま在学していたら三十一年のインターハイ・国体は絶対に優勝していたろうと言われる人である。残念ながら勉学半ばにしてブラジルに渡り現在はブラジルで自営、母校を思う念が強く、たえずたよりをよこしては後輩を励ます。一層の成功を祈りたい。
(続く)


昭和28年優勝チーム

# by swpc | 2012-02-13 19:46

俊秀群像

 昭和25年(1950)から20年の永きにわたり、済々黌水球部の部長として栄光の時代を築かれた平田忠彦先生が、昭和53年に「日本高等学校 水球三十年史」を出版された。この本が出版されてから既に33年の月日が流れ、平田先生ご本人を始め、多くの先輩方が鬼籍に入られた。
 この本の一部をご紹介しながら偉大な先輩方を偲びたい。
(柴田範房)

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「済々たる多士、文王以て寧し」(詩経・大雅篇)これが済々黌の黌名の出典である。
 明治十二年に創立された済々黌は近く百周年を迎えようとしているが、その間輩出した人材は枚挙にいとまがないほどである。頂度それと同じように、終戦直後に始まった済々黌水球部の今日までの三十二年間の歴史をふり返ってみると、全く文字通り、「済々たる多士」を輩出している。オリンピック出場選手七名(延べ九名)オリンピック水球監督二名、その他アジア大会出場選手十一名、ユニバーシアード出場選手十七名、海外に遠征した選手三十名、まことに驚くべき数であって、一つのクラブからこのように多数の名選手を送り出した学校は日本中にもあまり例がないのではなかろうか。
 今、これらの日本の水球界を背負って活躍した多くの名選手や、思い出の中に生きるあの人この人をぬき出して、その面影を偲ぶこととする。

草創期の人々
 先ず第一に挙げなければならないのは古荘・飯田の両氏であろう。古荘次平氏は御存知の通り日本の水球界の草分け、ベルリン大会にキーパーとして出場した名選手であり、飯田寿平氏も早大在学中は水球チームの要として活躍した人である。両氏共に済々黌の出身ではないけれども、済々黌水球部の恩人である。終戦直後の昭和二十一年、食もなく家もなく、みじめな世相の中でとかく卑屈になり勝ちを若人たちを集めて、旧五高プールで水球の手ほどきを試みたこの両氏の功績は誠に大なるものがあると思う。
 これが契機となって、昭和二十一年の秋には早くも済々黌と熊本高校にそれぞれ水球チームが誕生し、翌昭和二十二年八月に兵庫県の宝塚プールに於て行なわれた第十五回全国中学選手権大会には両チーム共に出場、思いがけなくも済々黌チームは決勝戦に進出、当時強豪を誇った天王寺中学に5-3をもって惜しくも敗れはしたものの、二位を確保出来たことが、その後の済々黌の水球部の発展にどれほど大きなプラスを与えたかは言うまでもない事であった。爾来、今日まで古荘・飯田の両氏には引きつづき指導助言をいただいているが、全く有難いことである。
 初代水球部長の吉田長善氏も忘れてはならない人であろう。早大の史学科卒業後、母校済々黌に勤め社会科の担当、有名な熊本の相撲の司家の当主でもあって、公私ともに多忙であったが、水球部の部長としても良く選手たちの世話をし、遠征の時などは専ら栄養補給の面で奔走、選手たちを喜ばせた。小堀流出身。部育成の功績は大きい。
 さて、済々黌水球部のOB選手たちとなると、皆が思い出の対象となるわけであるが、年代順にかいつまんで述べてみたい。
 木村晋君、昭和二十年四月江田島海軍兵学校の最後の生徒として入校、やがて敗戦で復員、済々黌に再入学したという経歴の人。宝塚プールにおける第十五回全国中学大会には松前健男氏(東海大教授)と共にコーチとして初の水球チームを率いて参加、以来今日まで大先輩として後輩の世話をしている。熊本でも古い電気商の当主。GKさんとして親しまれている。
 矢賀正雄君、日本の水球関係者でその名前を知らない人はまずあるまい。昭和三十年以降ずっと済々黌水球部の指導者として活躍、度々優勝をもたらした。多くの試合をみ、熱心に研究し、実地に応用して日本の水球のレベルアップを願うまじめな努力家である。笛も正確でルールに精通し、九州では最も信頼出来るレフェリーでもある。済々黌OB会、済泳会を組織し、会員相互の連絡、後輩の指導、会報の発行など精力的に活躍している。立命館大卒で本職は西山中学の先生、常に謙虚で恬淡。まだ四十代の若さなので、今後の活躍を期待する。
 矢島大君、在校中は、創部まもなくの水球部の主将としてチームづくりに活躍、同時に秀才の矢島としても有名、済々黌卒業時には成績優秀のゆえをもって恩賜記念賞を受賞している。一橋大卒業後、三井銀行に勤務、目下済泳会東京支部長としてOB会のまとめ役。
 家人逸郎君、済々黌・早大と一貫して水球選手として活躍。後輩の面倒をよくみ、いろいろ指導助言を与える。母校済々黌を愛する点においては人後におちない。理論家であると共にロマンチストでもある。浮世の辛酸を知りつくした実業家、今後の大成を期待する。
 他に清田信一君、甲斐二郎君、田代一生君など在熊のOB諸子がいる。それぞれ今もなお本務のかたわら水泳への情熱を傾け、若手選手の育成に努めている。
 異色のOBの一人に三浦八水君がいる。県農協の中央連合会長、既に県議の経験もあり、やがて国政に参与する日も来るだろう、自民党の若手ホープ、山鹿市水泳協会長。
 昭和も二十五、六年となると水球部の基礎も固まり、実力的にも優勝をねらえる状態となり、名選手が陸続として生まれ出た。
 藤田恒夫君、済々黌・早大を通じて水球選手として活躍、済々黌時代には主将、現在新日本ダンボールに勤務、矢島・家人の諸君とともに東京済泳会の中心人物。
 遠山徳一君、阿蘇内牧の温泉旅館ホテル角万を経営、ホテル内に温水プールを設けて、水泳への情熱をみせている。
 津田修(旧姓佐野)・藤本武士の両君も健在、津田君はハンドボールの指導者として藤本君は剣道でそれぞれ名をなしている。
 安浪渡君、済々黌から熊大工学部に進学。大学一年の時、済々黌コーチの大任を負い、美事第一回目の全国制覇の偉業をなしとげた功績は大きい。真面目なエンジニア、広島の三菱重工に勤務中、在校中は主将、美しい泳ぎで国体出場の経歴も持つ。
 古賀伸一郎君、済々黌・早大と一貫してGKとして活躍、GKとしては日本一の定評があった。第二回アジア大会に参加、早大卒業後は共同通信に入社、現在スポーツ記者として活躍中。
 田代二生君、古賀君同様早大卒、アジア大会にも参加した、早大水球部の監督、ユニバーシアード日本チームの監督などをつとめた、明噺な頭脳と「かん」は有名。
 牧野耕治君、千葉大医学部卒、千葉県の茂原市で病院を開業、医学博士、済々黌在校中はずっとバックスとして活躍した。
 大坪藤哉・大学の兄弟選手も健在。
 故高木昌一君、中大卒業後わずか一年で交通事故のため死亡、中大水球部の基礎を築いたその功績は高く評価されている。昭和三十九年に高木・飯田杯を設けて大学水球リーグの勝者に授与することとなったが、若くして散った二人の天才選手の名はいつまでも残ってゆくだろう。
(続く)


昭和26年のチームメンバー

# by swpc | 2012-01-27 13:36

全日本代表メンバーに見る黄金時代

 昨年、村山憲三さんから日本水泳連盟の機関誌「水泳」の昭和37年(1962)から昭和39年(1964)までのバックナンバーを資料として送っていただいた。四半期ごとに発行されるこの機関誌の年度末号には、毎年その年度の優秀選手が発表される。このうちの昭和37年1月号には昭和36年度の優秀選手が掲載されているが、まさに黄金時代を象徴するようなメンバーリストとなっている。
(柴田範房)


全日本代表チームの末尾の※印が濟々黌OB


代表チームメンバーとして欧州遠征に旅立つOBを羽田空港に見送る(1963.8)

# by swpc | 2012-01-14 15:32

ヘッダー写真:昭和36年、インターハイで二連覇し凱旋した熊本駅ホームで歓迎を受ける済々黌チーム


by swpc

Note

濟々黌水球部の歴史は戦後復興の始まりとともにスタートしました。以来今日まで65年、苦難と栄光の歴史をあらためて振り返り、未来への道標とすべく、このブログを開設いたしました。必ずしも時系列ではありませんが、少しずつエピソードをご紹介していきたいと思っています。また、OBその他関係者の皆様から「想い出話」の投稿をお待ちしています。また、お手持ちの写真がありましたら、ぜひご貸与ください。
平成23年8月
    柴田範房(昭和39年卒)
連絡先:
ugg99537@nifty.com

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